現代いけばなシリーズ
title:散華(さんげ) ver.1.0j
木村応水 作
1999.1
Virtual Gallery3 参加作品
群馬県・前橋市 群馬セキスイハイム本社ビル
1999年 1月23日、24日
『西の窓の天使』 G.マイリンク
影のような運び手たちが墓穴にシャベルで土をかけている間、白マン
トの法師は、ここかとおもえばまたあちらというふうに、腰をかがめて
妙な仕草をしている。まるで手入れに夢中になっている庭師のように、
いろいろな花卉や草花に気を配ろうとしているらしい。せん定し、先端
をくくりあげ、土にいけ、水をかけて、それもゆったりと落ちつき払っ
てやっている。埋葬の儀はとっくの昔に忘れ果てたという趣だ。
墓の土が丸く盛りあげられた。濃紺の装束の者たちは去った。奇妙な実
験助手だったガードナーは、若くて生きのいい薔薇のひと株を、新しく
きれいに削った支柱にもたせてピンと立つようにした。薔薇の花は、豊
かな枝々から鮮血のように赤く輝く・・・・
『死んでいったひとりの若い女性への公開状』 ジルベール・セブロン
からになったカプセル、よごれたガラスコップを別とすれば、きのう
の道具立てになんの変化もない。時計もとまらずに動いている。だが、
小さな花瓶の中では、バラが一本、やはり枯れて死んでしまっている。
あなたの両親も、医者も、警官も、だれひとりそれに注意を向けなかっ
た。この些細な事柄のたいせつさが、いきなりわたしにはっと感じられ
たのは、なぜだろうか。このとるに足らぬ小さな生きものは、沈黙の質
を変え、あなた自身と同じ物体になり果ててしまったのだが、理解しよ
うとねがう人にとってこれは無視できない要素なんだ、わたしがとっさ
にそんなふうにかんじたのはなぜだろうか。
水がなくなって死んでいたこのバラの花は、だれかがあなたに贈り物
にしたのだろうか、とすれば、その行為によって、一瞬間、この悲しく
わびしい場所にもほっと心なごむことが起こっていたといっていいわけ
だ。それとも、きのう、たぶんあなたが、自分でそれを買ったのだろう。
この美しい世界とのさいごの和解のこころみとして。百合の花も、菩提
樹やばいかうつぎの香りも、木苺の味も、日の暮れがた、とねりこの頂
きで鳴くつぐみのうたも、捨てて行ってしまうなんて、六月十六日とい
うような日に、自殺してしまうなんて・・・・
『異物』 ジャン・ケロール
カーネーション。かわいそうにおまえまだ目ざめていないんだね。
すっかり髪が乱れているよ。お化粧してあげるからね。さあ、ほら!
花びらをお出し!」花の扱いぶりはすこし乱暴だったが、合図の笛が鳴
ったみたいに花を一斉に集めたり、汽車や穴蔵での眠りから目をさまさ
せたり、彼女はてきぱきと仕事をした。すなおな花とそうでない花の話
をしてから、自分は花束を作るのが器用だと言った。低く垂れたピカル
ディ平野の空の下の、血の色をしたあの大輪のカーネーション、風や驟
雨にも耐えられない、ほっそりとした小枝、毛糸の玉のように、ゆすぶ
ってほこりを落とし、そのつぼみを手鍋の水につけてあらったアネモネ
の花束、あの花々がいまでも目に浮かぶ。花というものは自分の思いど
おりにならない。ローズおばさんは手づから、ぼくにそのことを教えて
くれた。「おまえは男なんだから、あたしおまえにキスはしないよ。」
この、ぼくをぞっとさせた言葉がいまでも耳に聞こえるようだ。でも、
彼女はそう言いながら、はにかんだ、控え目な様子をしたものだ。それ
でも、ぼくが病気になったときは、花は桶の中で腐らしたまま、客もお
しゃべりも花束も花輪もいっさいを投げ出して、夜昼となくぼくの看護
をしてくれるのだった。花がなくても人は死ねる、そう言って彼女はぼ
くのそばにいてくれた。彼女の髪は、ある種の木の葉のように銀色に光
り、体もすこしちぢこまった感じであった。それから、彼女のほうが死
んでしまった。ぼくも彼女の看病をした、ぼくがこれまでに愛したただ
ひとりの人を・・・・「あたしは十年早く死ねばよかったんだ、ね、ガ
スバール。あたしはよけいに生きすぎたよ。」冬はたけなわだった。
近所の人びとが、ぼくたちの世話、食事の使い走りを引きうけてくれ
た。ローズおばさんはずっと前から、しなびていた。息を引きとる前、
彼女は花を取って束ねる身ぶりをしているようにぼくには思えた。最後
の花束を、愛する自分の神へ捧げるためにこしらえたのだ。
『赤いおんどり』 メオドラーク・ブラトーヴィッチ
きちがいマーラがいきなり草むらから立ち上がった。片手に花をもち、
もう一方の手は腹部に押し当てていた。何かいまにも笑い出すか、さも
なければくしゃみでもしそうな格好であった。目はうつろに見開かれて
いた。そのひとみには白い墓石と、板の上の奇妙な物体と、茨のやぶの
なかでもつれあっている男たちの姿がうつっていた。彼女は身動き一つ
せず、赤い花をろうそくのようにじっとさし上げたまま立っていた。
『観神論』 神秀
また<散花>というのは、その意義は次のようである。すなわち正法
を広め説いたもろもろの功徳の花は、生命あるものを利益し、あらゆる
ものに恩恵をほどこし、真実そのものであるということにおいて、すべ
てのものに荘厳(しょうごん)を施すのである。この功徳の花は、仏が
ほめたたえるものであって、無上にして変わることなく、しぼみおとろ
える時がない。もしまたある人がこのような花を撒いたならば、幸福を
得ることの大きさは、量り知れないのである。もし如来がもろもろの人
びとに、いろどった絹織物を裁ち切らせたり、草や木を削りとらせたり
することを散花であるとするならば、それは理にかなったことであると
はいえない。それはなぜかといえば、正常な戒を守る人は、もろもろの
大地のあらゆるものにおいて、禁を犯させないし、誤って禁を犯せば、
大きな罪を受けるからである。まして今日の人は、故意に戒を破り、あ
らゆるものを傷つけてしまい、幸福の果報を求め、利益を得たいと思い
ながら、かえって失ってしまうのである。どうして正しいことがあるだ
ろうか。
『バビロンの邪神』 フェルナンド・アラバール
あなたもいつか死んでしまうのか、とぼくは尋ねた。
「そうよ」あなたは答えた。
「ぼくはどうするんだろう」
あなたは、そのときにはおまえはもう大きくなっているだろう、と答え
た。
「そんなこと関係ないのに」ぼくは言った。
いくらかは関係がある、とあなたは言った。
「そうか」ぼくは言った。
誰でもいつかは死ななければならない、とあなたは言った。
ぼくは、永遠に死んでしまうのか、とあなたに尋ねた。
「そうよ」あなたは言った。
「じゃあ、天国はどうなるの?」ぼくは言った。
あなたは、それはもっと後になってからの話だと言った。
あなたに花を持って行ってあげよう、とぼくは言った。
「いつ?」あなたが言った。
「母さんが死んだときさ」ぼくは言った。
「あ!」あなたが声をあげた。
ぼくはあなたに、花を持って行ってあげる、と言った。「ヒナゲシの花
を」とつけ加えた。
そんなこと考えないほうがいい、とあなたは言った。
「どうして?」とぼくは言った。
「だって・・・・」あなたは言った。
「まあいいや」ぼくは言った。それから、ふたりはいずれ天国で再会で
きるだろうか、と尋ねた。
「会えるわ」あなたが言った。
「よかった」ぼくは言った。
誰がそれを作ったのか、とぼくはあなたに尋ねた。
「何を?」あなたが言った。
「人間が死ぬって話」ぼくは言った。
「誰も作りゃしないわ」あなたが言った。
「じゃ他のことは?」ぼくが言った。
「他のことって何?」あなたは言った。
「天国の話さ」ぼくが言った。
「だれも作りゃしないわ」あなたは言った。
「なるほど」とぼくは言った。「なるほど」とまた言った。それから、
「じゃあ母さんが死んだら、母さんのお腹を太鼓にしちゃおう」とぼく
は言った。
「そんなこと、言うもんじゃないわ」あなたは言った。
「罪になるの?」ぼくがきいた。
「そうじゃないけれど」あなたは答えた。
『おとうと』 幸田文
「逢ったこともない人だけど、死んで行ったと聞けばおれにゃ懐かしい
や。ねえさん、花あげてくれないか、おれの小遣いで。・・・・なんで
もいいや、まっかな花がいいや、白くないのがいいんだ。紅いのあげて
おくれよ」といって、又つけ加えた。「花なんてもう・・・・その人にゃ
何でもないんだから、ほんとはあげてもあげなくてもいいだろうけどね、
・・・・生き残されたものの身になりゃやっぱりせめて花なんか賑やか
なほうがいいって気がすらあ。・・・・生き残ったなんてもんじゃない
からね。生き残されたんだよ。ここの病院連中は!」
『花』 田宮虎彦
花をつくるようになってからは、初冬のその季節は花の出荷のはじまる
時期になった。一面に咲きはじめたキンセンカや菜花や房州水仙などの
花の中にうずまって青いあたたかい空を見上げることは、ハマの心をよ
ろこびで満たした。今日もハマは好きな空を見上げる。ハマは花の匂い
を胸いっぱいすいこみながら、今にもきれぎれになりそうな白い雲がひ
とひら静かに流れている青い空をしばらく見上げていた。ハマの心のに、
五年前の今日、おさないままで死んだアキの思い出が、水の流れのよう
にくっきりと冷たい思いを流していく。五つで死んだアキは、死んだ五
つのアキのまま、ハマの心の中で幼く笑い、泣き、もだえていた。アキ
が死んだ時、ハマは三十三であった。悲しい思い出や苦しい思い出はハ
マの思い出の底に、その頃でももう捨てきれないぐらいよどんでいたが、
自分の子を失った悲しみや苦しみにくらべると、そんな思い出など悲し
みとも苦しみとも言えなかったのだ。ハマはアキが埋められる時、墓山
の唐椎の木の根にうつぶして泣いた。しかし、ハマを涙にうずめたまま
日々は流れていき、その時の悲しみはもう心のひだのかげに深くしみこ
んでいっていた。
アキが死んでから、今日は、六度目に迎える命日であった。十一月二
十八日。ハマは早く仕事をやめ、向原の源五畑に咲きはじめたばかりの
紫の傘咲きルピナスを切りにいった。それを真っ白いマーガレットでつ
つみ花桶をみたし、墓山にのぼって行くのだった。去年は薄桃いろのア
ケボノ菊で花桶をみたした。おととしは白い夕日菊と赤い矢車草で花桶
をみたした。その前の年は濃いだいだい色のキンセンカと黄寒菊・・・
ハマは五度すぎて来たアキの命日のことをはっきりおぼえていた。夏の
はじめに挿芽をしたり酷暑のさかりにやけつくような陽射しをまともに
浴びながら種子を蒔いたりする時から、ハマはアキの命日に供える花を
考えていた。
『幻化』 梅崎春生
女は遠くをみる眼付きになった。
「あたしが小学校の五年の時だった。いや、国民学校だったわね。体は
見なかったけれど、棺に入れて運ばれるのを見た。うちの校舎でお通夜
があった筈よ」
「そうだ。その棺をかついだ一人が、おれだよ」
「まあ、あんたもあの時の海軍さん?」
五郎はうなずいた。女は五郎の頭から足まで、確かめるように眺めた。
「あの棺の中に、このダチュラの花を、いっぱい詰めてやった。この花
は摘むとすぐにしおれたけれど、匂いは強かった。棺の中で、いつまで
も匂っていたよ」
「そういう花なのよ。これは」
『この神のへど』 高見順
薔薇の花が恐いと、もし誰かが諸君につぶやいたとしたら、諸君はこ
れをどう思うか。このつぶやきに、どう答えるであろうか。私だったら、
その誰かに、左様、薔薇の花というからには、その誰かを女性と見るの
が適当だとするならば(私がでなく、諸君が、そう考えるならば)その
女性に、私は直ちに同情と共感の語調で、
「そうですか、それは」
と言うであろう。
私は自分をひそかに褒めていた。誇らかに私は言った。
「酒折君を介抱するのは僕の任務じゃない」
花瓶の横に立った則子は、花弁をむしりながら、
「そうね」と、おだやかに言った。
「そうなんだ」と、私は叫ぶように言った。
則子は、むしった花弁を唇に当てて、ぷうと吹くと、
「酒折は、あんたに元気だと伝えてくれと言ったのね。これは自分でい
ったのね?」
「そうなんだ」
私の眼に、いつしか涙が浮かんでいた。
「死ぬかもしれないと自分でも思って、元気だと伝えてくれと、あんたに
言ったのね」
「もう、やめないか」
「わたし、何か、あんたの気に障ること言って?」
則子は、そう言うと、花瓶から乱暴に花を抜いた。そして私の前に足音
もなく近づくと、乾いた眼を真っすぐ私に向けて、
「はい」
と、花瓶の水でその茎のしとどに濡れている花束を、左様、則子の涙の
代りのように茎から水のしたたり落ちる花束を、つと私に差し出した。
「僕にくれるのか」
「ええ」
「どういう意味だ」
「御自分で考えたら」
私は自分の顔を、死者のように花で包んで、
「帰れと言われないが、帰ろう」
椅子を立つと、則子が、
「あんたは、花が好きだったわね」
「生憎くこういう花は嫌いだね」
嫌いな花を抱いて私は部屋を飛び出した・・・・
『音楽』 三島由紀夫
映画館の角に小さい花屋があり、そこばかりは季節のみずみずしい花
々の色に潤っていた。そのとき、私は花屋の前に立ち止まった一人の青
年が、まぎれもなく、さっきこの部屋から出て行った花井だと気がつい
た。
花井は小さな出来合いの百円だかの花束を買うと、そこから二、三歩
歩き出して、花束に鼻を寄せた。
「ふん、案外ロマンチストじゃないか」
と私は心中嘲笑を押さえることができなかった。しかし次の瞬間に、思
いがけない行動を花井がとった。花束のセロファン包みを引きちぎり、
その花を、丁度走ってきたトラックの車輪の下へ投げ入れたのである。
トラックが去ったあと、街路にはふしぎな形のしみができていた。そ
れは何だか、美しい女の嘔吐の跡のようで、私がその濁った野蛮な色調
に気をとられているあいだに、花井青年の姿は消え失せていた・・・・
『ラーマーヤナ』
水晶さながらパンパーの水面では、白鳥やチャクラヴァーカー鳥がた
わむれている。赤い蓮の花は咲き乱れている、一つ一つが、あたかも真
紅の朝焼けのごとくである。そして水面は、蜜蜂に散らされた花粉でお
おわれている。まことに、ポンパーの美は魅惑にみち、その岸を縁どる
森のあでやかさはきわまる。風にゆられる蓮花は、休むときもなく静心
なくさざ波にゆらいでいるのだ。
私は、かの蓮花を愛し蓮花の目をもつ美しい人なしに生きることはで
きないのだ。おお、愛の神はいかにむごいことであろう。彼女をすみや
かに取りもどす望みはない。しかし、愛が私の心になつかしい彼女の面
影をよみがえらせる。春がその花と葉とでかくも私を悩まさなかったな
らば、私は愛欲の苦痛に耐えたであろうものを。
私がシーターとともにあったときは楽しみであったものごとが、彼女
のいないいまは、あらゆる魅力をうしなってしまった。森にはキンシュ
カ、マーラティー、マツリカ、仏桑華、カラヴィーラ、プールナ、その
他あらゆる花樹が、紅、黄金、青、その他あらゆる色の花をつけ、芳香
を流している。また湖の蓮の花のつぼみも、赤いパラシャの花も、私の
目をよろこばさない。蓮の花片は、シーターの目のごとくである。木々
から吹きいでて蓮の花心にふれ、その香気を運んでくる微風は、シータ
ーのかぐわしい息さながらである。
『ルーベンスの偽画』 堀辰雄
それは漆黒の自動車であった。
その自動車が軽井沢ステーションの表口まで来て停ると、中から一人の
ドイツ人らしい娘を降ろした。
彼はそれがあんまり美しい車だったのでタクシーではあるまいと思った
が、娘がおりるとき何か運転手にちらと渡すのを見たので、彼は黄色い
帽子をかぶった娘とすれちがいながら、自動車の方へ歩いて行った。
「町へ行ってくれたまえ」
彼はその自動車の中へはいった。はいってみると内部は真っ白だった。
そしてかすかだが薔薇のにおいが漂っていた。彼はさっき無造作にすれ
ちがってしまった黄色い帽子の娘を思い浮かべた。自動車がぐっと曲が
った。
彼はふと好奇心をもって車内を見回した。すると彼は軽く動揺している
床の上にしちらされた新鮮な唾のあとを見つけたのである。ふとしたも
のであるが、妙に荒あらしい快さが彼をこすった。目をつぶった彼には、
それがむしりちらされた花弁のように、見えた。
『ゴッホの手紙』 ヴァン・ゴッホ
絵画は花のように萎む・・・・ドラクロアさえ痛ましい目に会ってい
る、すばらしい《ダニエル》《トルコの女官たち》(ルーブル美術館の
とは全然別で、全体が単一の紫調だ)それらの絵が、色あせているのが
印象的だった。クールベやカバネルやヴィクトル・ジローなどを見てい
る観覧人の大部分の人たちには無論わかるはずもないが。われわれ画家
は一体何者なのだろう。そうだ、リシュバンの言い分は正しい、例えば
乱暴な調子は簡単に冒涜の牢獄に落とされる。
『ぶどう畑のぶどう作り』 ジュウル・ルナアル
彼がそれを飲んでいる間、彼女は「蚤」を探すのである。「蚤」とい
うのは「ふるえ草」ともいう禾本科に属する草の俗名で、ごく細い茎の
端に、辛うじてくっついている小さな花が、その華奢な茎とともに、い
つでも羽虫のようにふるえているのである。お神さんは、それで花束を
こしらえる。なぜなら、この「ふるえ草」は、萎れることがない。した
がって、花瓶に挿して暖炉の飾り石の上に置いておくと、翌年の夏まで
優しい姿を保っているからである。これが田舎の女に与えられた冬の花
である。
『紅楼夢』 曹雪芹
その日はちょうど三月の中旬。
宝玉は朝の食事をすませると、帙(ちつ)入りの『会真記』を手にし
て、沁芳閘(しんほうこう)の橋のたもとにやってきた。そして桃の花
の下の石の上に腰をおろすと、その本をあけて最初からとっくりと味わ
いながら読んでいった。
と、ちょうど「散る紅は群れをなして」というくだりまできたとき、
とつぜん一陣の風がさっと吹いてきて、木の上の桃の花をあらかた吹き
散らし、からだにも、本にも、地面にも、花びらがいっぱい降りかかっ
た。宝玉ははらい落とそうとしたが、ひょっと足でふみにじったりして
はいけないと思ったので、その花びらを服の上前に入れて、池のほとり
に行き、池の中へふるい落とした。すると花びらは水面に浮かんで、ゆ
らりゆらりと波にただよい、流れ流れて、とうとう沁芳閘を出ていって
しまった。やれやれと思って、またもとの場所へもどってみると、なん
とまた地上には無数の花花花!
はて、これはどうしたものかと宝玉がためらっていると、そのとき突
然うしろから声をかけたものがあった。
「何をしてらっしゃるの、こんなところで?」
宝玉、はっとしてふりかえってみると、なんとそれは別人ならぬ黛玉で、
肩に花ぐわをかつぎ、その花ぐわには薄絹の袋をかけ、手には花ぼうき
を持っている。
「やあ、いいところへきてくれましたね。この花びらを掃きよせて、ぜ
んぶあの水の中に投げ入れてくれない? ぼくね、いまたくさんあそこへ
投げこんだところですよ」
「水の中はだめよ。だってここいらの水はきれいですけれど、流れ流れ
て人家のあるところへ行くと、きたないものや臭いものがいっぱいたま
っているんです。やっぱり花を踏みづけにすることになりましてよ。あ
たし、あすこの隅のほうに、花塚をこさえていますの。これから花を掃
きよせて、この絹の袋に入れ、あそこに埋めることにしましょう。そう
すれば、長い間にはいつか土になってしまうでしょう。そのほうがきれ
いじゃないかしら?」
それを聞いて、宝玉はおどりあがって喜んだ。
「うまい! じゃ、本をしまって、ぼくもお手伝いします」