『純粋アート批判』のソースは、
『実践理性批判』
カント 著
波多野靖一・宮本和吉・篠田英雄 訳
岩波文庫
第二篇 純粋実践理性の弁証論
第一章 純粋実践理性一般論について
p219-220
およそ純粋理性は、我々がこれをその思弁的使用において考察するに
せよ、あるいはその実践的使用において考察するにせよ、必ず純粋理性
の弁証論なるものをもつのである。純粋理性は、〔その思弁的使用にお
いて〕与えられた条件付きのものに対して条件の絶対的全体性を要求す
るが、かかる全体性は、物自体においてしか見い出され得ないからであ
る。しかし〔現実的な〕物の概念は、すべて直観に関係せしめられねば
ならない、ところがこの直観は、人間にとっては常に感性的直観でしか
あり得ない。それだから対象は、物自体としてでなく現象としてのみ認
識せられるのである。しかし現象における条件付きのものと条件との系
列においては、無条件的なものは決して見い出され得ないから、もし条
件の全体性(従ってまた無条件者)という理性を現象へ適用するとなる
と、あたかも現象が物自体であるかのような(かかる場合に警告を与え
る批判を欠くと現象は必ず物自体と見なされるから)仮象がそこから不
可避的に生じるのである。そこでもしこの仮象が、およそ一切の有条件
的なものは無条件的なものを前提するという理性原則を現象そのものに
適用した場合に理性の陥る自己矛盾によって正体を現さないと、仮象は
しょせん単なる見せかけの真実にすぎないということが、ついにわから
ず仕舞になるであろう。こういうことがあるので理性は、かかる仮象が
どこから生じるのか、またどうしたらこの仮象を除き得るかということ
を追及せざるを得なくなる、そしてこのことは純粋理性の能力全体を余
すところなく批判することによってのみ成就されるのである。ところで
純粋理性のアンチノミーは、純粋理性の弁証論において明らさまにされ
るが、しかしまたこのアンチノミーは、人間がこれまでに陥ったことの
ある迷妄のうちで、最も有難い迷妄であると言ってよい、我々を促して
かかる迷路から脱出するための鍵を求めさせるのは、ほかならぬこのア
ンチノミーだからである。この鍵が見つかると、我々が探しこそしなか
ったが、しかしどうしても必要なもの、すなわち〔物の自然的秩序では
なくて〕物のいっそう高次でかつ恒常不変な秩序〔物の可想的秩序〕へ
の展望がこれによって我々にひらけるのである。だが我々は、今すでに
物のかかる秩序のなかにあり、またこれからもこの秩序のなかで、我々
の現実的存在を、理性による最高の規定に従ってどこまでも続けていく
ように、明確な指定によって指示されているのである。