title:プレロマ、そしてクレアトゥラ ver.5.0j
キクヤヨシミ 作
1997.2


『パパラギ』 ツイアビの演説
 パパラギは考え続ける。おれの小屋はヤシの木より小さい。ヤシの木
は嵐で曲がる。嵐は大声でどなる。と、まあこんな具合に彼らは考える。
彼らの流儀ではこれが自然なのだ。彼らはまた自分自身についても考え
る。おれは生まれつき背が低い。おれは女の子を見ると心がうきうきす
る。おれはマラガ(旅行)が好きだ、等々。
 たしかに頭の中でこんな遊びをするのが好きなものにとっては、考え
るということは、楽しくもおもしろいことかもしれない。ときには、思
わぬところで役に立つこともあるだろう。だがパパラギは、あまり考え
てばかりいるので、それがもう癖になり、なくてはならぬものになり、
それどころか一種の義務にまでなってしまった。彼らは切れ目なく考え
続けねばならない。考えることではなく、からだ全体を同時に使って活
動することが、彼らにはむずかしくなってしまった。頭だけは目覚めて
働いているのに、体のすべての感覚はすっかり眠りこんでいる、という
こともめずらしくはない。立って歩いていても、しゃべっていても、食
べていても、笑っていても。
 考えること、考えたもの、思想、これは考えたことの結果であるいは、
パパラギをとりこにした。彼らはいわば、自分たちの思想に酔っぱらっ
ているようなものだ。日が美しく輝けば、彼らはすぐに考える。「日は
いま、なんと美しく輝いていることか!」
 彼らは切れ目なく考える。「日はいま、なんと美しく輝いていること
か」これはまちがいだ。大まちがいだ。馬鹿げている。なぜなら、日が
照れば何も考えないのがずっといい。かしこいサモア人なら、暖かい光
の中で手足を伸ばし、何も考えない。頭だけでなく、手も足も、腿も、
腹も、からだ全部で光を楽しむ。皮膚や手足に考えさせる。頭とは方法
が違うにしても、皮膚だって手足だって考えるのだ。


『日本文化私観』 坂口安吾
 けれども、茫洋たる大海の孤独さや、砂漠の孤独さ、大森林や平原の
孤独さについて考えるとき、林泉の孤独さなどというものが、いかにヒ
ネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない。
 竜安寺の石庭が何を表現しようとしているか。いかなる観念を結びつ
けようとしているか。タウトは修学院離宮の書院の黒白の壁紙を絶賛し、
滝の音の表現だといっているが、こういう苦しい説明までして観賞のツ
ジツマを合わせなければならないというのは、なさけない。けだし、林
泉や茶室というものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に
建設された空中楼閣なのである。仏とは何ぞや、という。答えて、糞カ
キベラだという。庭に一つの石を置いて、これは糞カキベラでもあるが、
また、仏でもある、という。これは仏かも知れないというふうに見てく
れればいいけれども、糞カキベラは糞カキベラだと見られたら、おしま
いである。実際において、糞カキベラは糞カキベラでしか無いという当
たり前さには、禅的な約束以上の説得力があるからである。
 竜安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な禅機に通
じていてもかまわない、石の配置がいかなる観念や思想に結びつくかも
問題ではないのだ。要するに、我々が涯しない海の無限なる郷愁や砂漠
の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠
慮なく石庭を黙殺すればいいのである。無限なる大洋や高原を庭の中に
入れることが不可能だというのは意味をなさない。


 『精神と自然』 グレゴリー=ベイトソン
 パークリー主教は正しかった。少なくとも、森の中で何が起ころうと、
彼がそこにいてその影響を受けない限り意味がないと主張した点におい
て。
 われわれは意味の世界を扱っている。


『人間と象徴』 C=G=ユング
 この潜在的な意味の存在や、それが一般的な意味を拡張したり、混乱
せしめたりしていることに気づかずにいる。もちろん、そのような心的
な地色は、人によって異なっている。個人個人は、いかなる抽象的、一
般的な概念も個人の心の文脈にとり入れる。だから、われわれはそれを、
おのおの個人的な方法で理解し応用する。談話中で私が“地位”、“金”、
“健康”、“社会”といった言葉を用いるとき、聞き手は私が理解する
のと“ある程度”同様に理解している、と仮定している。しかし、ここ
に“ある程度”というのが、私の論点となる。どの言葉も、同じ文化的
背景をもつ人々のあいだでさえ、個々人にとって何らかの少し異なった
意味をもっている。このような差異が生しる理由は、一般的な概念が個
人の文脈のなかで受け取られ、そのために、少し個人的な方法で理解さ
れ、適用されるからである。そして、意味の差異は人々がいちじるしく
異なった社会的、政治的、宗教的、ないし心理的な体験をもっていると
きに当然最大となる。概念がその言葉だけのものであるかぎりにおいて
は。その差異はほとんど目に見えないものとなり、実際的な問題となら
ない。しかし、正確な定義や、注意深い説明が必要とされるときに、わ
れわれはときとして、用語の純粋に知的な理解の面のみならず、とくに
情緒的な色合いや、その適用のうえにおいて、驚くべき差を発見する。
概して、これらの差は潜在的であるので、けっして認知されないもので
ある。


『ピカソ』 タイム・ライフブックス
「私はエヴァをとても愛しているので、彼女の名前を絵の中に書くつも
りだ。」ピカソは好きな女性の頭文字を樹の幹に刻む少年のように、言
ったとおり絵の中に名前を書いた。


『オペラ座の怪人』 ガストン=ルルー
 やがてこうした愛の繰りごとに伴ううめき声は、いちだんと高まって
いった。私はこれほど絶望的な声は聞いたことがなかった。そしてシャ
ニイ氏とわたしは、そのぞっとする悲嘆の声がエリック自身のものだと
わかった。クリスチーヌのほうはといえば、たぶん彼女はわたしたちが
前にしている壁の向こう側のどこかで、ひざまずく化け物に対して悲鳴
をあげる力もないまま、恐怖に言葉を失って立っているにちがいなかっ
た。
 その嘆きの声はまるで大洋がうめいているようによく響き、とどろき、
ぜいぜい音をたてた。エリックはその岩礁がたてるようなうめき声を、
三度つづけて喉から出した。「おまえはわたしを愛していない! おま
えはわたしを愛していない! おまえはわたしを愛していない!」
 それから、彼は穏やかになった。
「なぜ泣いているのかね? おまえは自分がわたしのことを苦しめてい
るのをよく知ってるくせに」
 沈黙。
 沈黙のひとつひとつがわたしたちには希望をもたらした。