title:凡庸な芸術家の肖像 ver.1.0j
木村応水 作
1998.11


 自宅でこっそりと「投稿をしたいと思う者もいることはタロウも知っ
ていた。そんな一大事を成し遂げるためには何とか自分をその気にさせ
ないといけないような臆病者だと、外出中に出くわしたフォンポートで、
思いきって投稿したりする。しかしタロウは、伝統的なやり方でやろう
と決めていた。それが正しいやり方だと思うのだが、ひょっとするとそ
ういう昔ながらのやり方がいちばん安心できるだけなのかもしれないの
は、自分でもよくわかっていた。とにかく、タロウは早起きして、シャ
ワーを浴び、一張羅を着て、作家の卵たちがたむろするリヴ・ゴーシュ
というレストランで贅沢な朝食をとり、文化庁へと足を運び、その正面
玄関に立った。
 慎重に深く息を何度か吸ってから、タロウはこの近寄りがたいビルディ
ングに入り、エレベーターを探してウエスト・タワーの89階へと向か
った。40階をすぎると一人きりになって、出会うことすべてを何かの
前兆と考える迷信深いタロウは、自分が一人だけ速くあがれる幸運な人
間なのだろうか、数少ない成功者の一人になれるだろうかと考えた。エ
レベーターがゆっくりと停止し、そのブロンズ色のドアが開くと、タロ
ウは機械的にエレベーターを降りた。だが、廊下を歩き始める前に、見
習い現代作家なら誰でも見覚えはあるものの、それが本当に目的の階な
のかと確かめた。念には念を入れているようなふりをしながら、その実、
内心ではおどおどしているのに照れ笑いを浮かべながら、タロウは自分
自身に説教を始めた。ときにはそれが数時間も続くことだってあるのだ。
「いい加減にしろ、ここで合っているじゃないか。すぐわかったくせに。
タロウ、廊下に並んでる肖像の偉人たちの名前だって、もう百年も変わ
ってないんだぞ。この前ひどい目にあったときから、間違いなく変わっ
ていない。左側の最初の三つはドストエフスキー、カフカ、紫式部、右
側のはジョイスにプルーストにヴァージニア・ウルフ」
 廊下の終わりまで来ると、タロウは立ち止まって深く息を吸い、「投
稿」と書かれたドアを開けた。いざここまで来てしまうと、早まったの
ではないかと心配になる。自分の物語はまだ充分ではないかもしれない。
口の中が乾いたので、何度か唇を舐めまわしてみたが無駄だった。「落
ち着け!」とタロウは自分に言い聞かせた。「これ以上待ったって意味
はない。これまでで最高の出来だってわかってるじゃないか。それはよ
くよくわかってるはず。先週形になりはじめたときから、これこそ絶対
だって思ってたはずだ」。タロウはさらに付け加える。「それにまだ二
回目の投稿だ。何かの間違いで受理されなかったとしても、もう一度チ
ャンスはある」
 ぼやぼやしている時間なんかないと心に決めると、若いタロウは中央
コンソールに力強く脚を踏み入れ、掌を認識パッドに押しあて、自分の
作家パッドを差し込んだ。そして普段よりいささか深みのある枯れた声
で、「私、見習い現代作家タロウ・キムラは、投稿を希望します」と言
った。
「どうも、キムラさん」と朗々としたアルトの声が返ってきた。
「あなたは今回二度目の投稿です。もし今回の投稿が受理されなかった
場合、残る機会はあと一回のみとなりますがよろしいでしょうか」
「はい」
「白いボタンを押して、投稿を行ってください」
 タロウは、勝っても負けても、本物の現代作家みたいに堂々と投稿し
ようと自分に言い聞かせていた。目を閉じたり、ため息をついたり、お
祈りをしたりなんかしない。これまで何千の指が押してきたし、これか
らも何千の指が押すはずの、白いボタンを黙って押すだけだ。
 タロウは勇気を出すために、昨日はどれほど自信があって、どれほど
提出原稿を完成させようと思っていたかを思い出した。実際、書き物机
に座った係員(いつも流行遅れの似合わないスーツを着ている60代の
男性だった)がタロウの方を向くと、名前を呼ばれる前にタロウはすで
に待合室の席を立ち、ドアへと向かっていた。「14番、キムラさん」
と彼が哀しげなかぼそい声で言うと、タロウは振り返り、作業室へと続
くドアを開けた。頭の中で1、2、3、4と廊下の右側のドアを数え、
14番の部屋へと進んでいった。その部屋は最近修理された部屋のひと
つだとすぐわかった。掌を認識パッドにあてるが、これで作業室の使用
料が中央銀行のタロウ個人の口座から引き落とされることになる。ドア
が開くのを待ってタロウは、興奮を抑えられぬまま、これから4時間自
分の作業部屋となる小さな部屋に入った。作家パッドの入ったケースを
肩からおろし、その使い古されたライトブルーのケースを開き、目の前
の小さな棚にポータブル・ライターを差し込んだ。このポータブル・ラ
イターは6年前、現代作家を職業にすることを宣言した際に文化庁から
支給をされて以来、ずっとタロウのものである。作家席に座ると、椅子
はたちまち身体に合わせてその形を変えた。
「ようこそ、キムラさん」という声が、左やや後方から聞こえてきた。
この部屋では音はいつもその方向から聞こえてくることをタロウは思い
出した。「今日は着想か編集にもってこいの環境を選りすぐって提供し
ます。最初は、6月25日のプエルトリコ沖。静かな波がよく似合う穏
やかな海の景色です。ローマ賞を受賞したアンドロス・ヴァン・ヒュー
レンも、そのすばらしい散文叙事詩の山場となる第三章を書く際に用い
ました。次は8月1日のヒマラヤ山脈。人間やら他の注意をそらすもの
のない、涼しい環境です。あなたの前回の投稿後に新たに加えられた三
番目の環境は、アマゾン流域、2月3日のジャングルの光景です。他の
新しい環境とは対照的に、エネルギーや変わった動物に満ちあふれてお
り、追加料金を払う価値が充分あります」呼び売り商人と化した機械が
続ける。「若い現代作家の皆さんにも、すでに使っていただいており、
この環境で仕上げた作品は気のりのしないものでもすばらしいと好評で
す」
「ありがとう、サラウンド。だけど今日はよくしってるおなじみのやつ
にしておく。ブラウニングの書斎をお願い。個人化ヴァージョンナンバ
ーは、32-345B」。するとただちに窮屈な作業ユニットが動き、気がつく
とタロウは、クルミ材の壁の部屋の、原稿やら皮に覆われた長方形の物
体がいっぱい載った大きな樫の作業机に座っていた。これに似たものは
何百年以上も昔にしか存在しない部屋である。このロバート・ブラウニ
ングなる人物がいったい何者で、どんな作品を書いた人間なのか、たと
えば冒険物語を書いたのかエロティックな叙事詩を書いたのかといった
ことすら知らなかったが、初めてそこを訪れしょっちゅうは使われない
シナリオに目を通していたときから、ブラウニングの仕事部屋だけは心
の落ち着く思いがしていたのだった。この大昔の作家の仕事部屋のタロ
ウの個人化ヴァージョンに定められている現実に合うように、サラウン
ドが室温を調整すると、タロウはわずかに室温が下がるのを感じ取った。
 タロウが作家パッド・モデル73-2のスイッチを入れると、ほんの数時
間前、眠る前に最後に開いたワードファイルが自動的に呼び出された。
昨日の午後のタロウは火がついたようで、注意や精力を他の何にも費や
したくなかったため、最後の物語(タロウはそれこそが自分の最高傑作
だと信じていた)が探し求めていた結末に行き着くまで創作を続けたの
だった。家に帰ってしわくちゃのシーツに身を投げ出して眠るまではあ
れほどまでに完全に思えた文章が、今日は不器用で不正確に思われるの
ではと心配になり、タロウは神経質そうに左手を口やら頬やらに擦りつ
けた。タロウはこの物語を長いこと待ち望んでいた。初心者が必ずやる
ように、自分こそが勝者だと自分自身を騙してしまうのではと心配にな
るぐらい長いこと。いや、今度は自信がある。今回の投稿こそ文化庁を
動かして、クラス1C見習い作家から現代作家に昇進するのだ。
 他の何千もの学生や見習い現代作家と同じく、成功を夢見ることにあ
まりに多くの創造力を浪費してきたことはタロウも知っていた。もちろ
ん家に自分の作業ユニットがあったらずっと便利だろうと考えていたし、
他の誰とも同じで昇進に伴う固定給だって当然欲しかった。万年受験生
や現代作家の卵のうち大勢は、やがて競争から落ちこぼれて店員かそれ
以下で人生を終わることになる。そうはならずに、本物の現代作家とい
う身分になれたら、それは間違いなくすばらしい。しかしそれを可能に
してくれるのは、出版、すなわちアートワールドへのアクセスを得るこ
とである。
 なるほど、大衆作家とか純文学作家といった身分を得るのとは比べも
のにならないが、とにかく最初のステップには違いない。それ以降のス
テップへと踏み出す勇気をタロウに与え、またそれを可能にしてくれる
最初のステップなのである。本当に大成功を収めた伝説的な見習い現代
作家のことをタロウは思いだした。考えてみると、わずか2、3年前の
ことではないか。名もない若者がこの前の戦争を題材に大衆小説を書い
て大ヒットしたのだ。国際ネットワークに載って、それが世界中でヴィ
デオ化されたのだ。ニューデリーでは奇妙なポップ風の童話ヴァージョ
ンまで出たし、それがフランスで受けて、主人公を6つの意識だか気分
だかに分けて、それをファンタスマゴリアにしたのがアート・チャンネ
ルで放映されたこともある。
 今日のタロウは希望に満ちた、快活な気持ちで、ネットワークにも手
が届くと確信していた。気分とは妙なものだとタロウは思った。一週間
もしない前は、学生、訓練作業、志望作家から認可訓練作業、そしてさ
らに小大衆作家、大大衆作家、そしてその上には死後百年以上も作品が
残る純文学作家へと続くこのピラミッドの底に押しつぶされたような気
がしていたのに、そしてずっと離れたところ、このピラミッドの頂点に
は、正典作家がいる。作品はずっと残り、作家になりたくないこどもた
ちまで学校で習うことになるような作品を書く人たちだ。
 新しい何かを作るということがやってみるとどれほど難しいことかも
タロウはわかっていた。つらい思いをして、成功への近道はないという
ことも確かに知っていた。なかでも、成功を求めて格闘する若い現代作
家を主人公にした小品を書いて、まさに成功の扉をくぐり抜けようとし
たときのことを思い出すと、恥ずかしい思いを禁じえない。評価装置で
ある文化庁のゲートウエイ・コンピュータがタロウの最初の投稿に、退
屈きわまりないというそぶりを見せながら、長い経験から生まれた数段
上手の知識で、次のように答えたときのことを思い出すと、身が縮む思
いがする。「なるほど、キムラさん、若い現代作家の話ですね。またで
すか。どれどれ、今日だけで8人目ですよ。一人は北アメリカ、一人は
ヨーロッパ、アジアからも二人、あとはアフリカですね。アフリカでは
どうやらこのテーマが今月の新発見らしい。あなたの作品のエンディン
グですが、教室での行動の描写や作家志望の若者たちの夜の議論の描写
と同じく、この作品をタイプ4A.31の芸術家小説の典型にしています。
この番号を控えて図書館で調べてみてください。最新のネットワーク一
斉調査の結果によれば、四千二百四十五の例が収録されているはずです。
うち三つが正典作品、百三が純文学作品、あとの残りはアンフィオニイ
作品です。
 あなたの投稿は取り消します。作家パッドのこの作品を記録している
部分も消去しました。これでもっと先のある作品にとりかかれるはずで
す。それではご苦労様でした。よい一日を、見習い現代作家キムラさん」
 あれほどつらい思い出はない、とタロウは思った。しかし、真の創造
性への試みにまつわる思い出もそれに匹敵するだろう。11月に起こっ
たこの最初の事件の一年前、タロウは、作家パッドが接続されている文
化庁のプロット、人物、イメージ生成装置に頼りすぎていたと結論を出
した。それではだめだ、自分の頭で考えるんだ。いつも助言してくれた
り、ソース・テクストや豊富な実例にすぐにリンクしてくれるあの優し
い声に助けてもらわなかったら、もっと大変なことになるが。タロウは
何時間も、作家の技巧をあの輝かしい時代、コンピュータの親切な手助
けもなく、作家が実際に「書物」と呼ばれる重たいものを作っていた
(という噂であったが、それをどうやって保管するのか、そもそもそれ
をどうやって読むのか、さっぱり見当がつかなった)時代の栄光へと戻
そうと頑張ったのだった。文化庁の評価装置をエミュレートするようプ
ログラムされている学校の訓練用評価装置、哀しいかなタロウの努力が
どれほど派生的なものかを指摘されたときの悔しさは忘れられない。そ
の作品は「自分一人で」(それがタロウが使った言い方だった)作った
ものだということを強調すると、「見なさい、タロウ」と知ったような
声が聞こえてきた。評価装置が何をしているのか気がつく間もなく、サ
ラウンドから映像が消え、一連のフローチャート、コンセプト、マップ、
メニューが現れ、そのいくつかには、「投稿作品の類似プロット」だと
か「若い現代作家に関する小説四十一作品の類型」といったラベルがつ
いていた。中でも恥ずかしく思ったのは、あれほど自信を持っていた作
品のタイトル、『凡庸な芸術家の肖像』が、正典作家の、それも頂点に
位置する、名前も聞いたことのないような20世紀の某作家によってす
でに使われていたことであった。
 最悪だったのは、またしても現代作家志望の若者の馬鹿げたうぬぼれ
に関する講義を聴かされたこと、それも今回は注意深く聞かなくてはい
けないことだった。必要な文学理論の講義は当然全部とっていたという
のに、評価装置はタロウの理論的ナイーブさ、イデオロギーに関する無
知を非難しているのであった。自分のいちばん問題なところは、必然的
創造を強調する文化庁とは折りが合わない、そしてまたそれを脅威と感
じてしまうほどに強い自意識、自分が独立性に確固たる自信を持ってい
ることだと、タロウは認めざるを得なかった。すべては、人間的なもの
であれ、人工のものであれ、両者が組み合わされたものであれ、あらゆ
る知の条件である言語に遡るのだと、機械がタロウに思い出させるので
あった。「見習い現代作家タロウ、われわれはみな、考えを伝えたり現
実を形づくるために言語を使うのです。しかし、あなたが共通英語を使
うからといって、あなたがそれを造ったわけではない。今ここであなた
が使う単語をまったくあなたがするとおりに組み合わせたものがいまだ
かつて誰一人いなかったとしてもです。実際あなたを教えた教師たちは、
思慮ある作家が、自分が言語を話すのと同じだけ、言語も自分を語るも
のだという事実に直面しているのだということを何度も教えてきたでし
ょう。そして、文学が言語の異なるレベルで、言語的に生成されたコー
ドである以上、あなたは自分を自分が造る物語の唯一の支配者であると
考えることは許されないのです。キムラさん、あなたの作家としての仕
事は、組み替えと可能な発見にあるので、起源でもなければ、発明でも
ない。作者とはタペストリーを編み上げる人であり、ウールの一本一本
の繊維を生み出す羊ではないのです」
 今ではそういう経験も積んでいるし、自信もある。先生たちはずっと
前からタロウに将来性があると言ってくれていたが、今度こそそれを現
実のものにするのだ。

 タロウは白いボタンを押し、作品を作家パッドから評価装置に転送し
た。これが定められたとおりの投稿方法である。そしてタロウは一歩下
がり、待った。七秒をほんの少しすぎた頃、さっきより暖かくずっと熱
のこもった評価装置のメロディアスな女性の声が告げた。「おめでとう、
現代作家キムラさん。あなたの作品は受理されました。次の木曜日にロ
ーカル・ネットワークに掲載されますが、われわれの予想では大きな注
目を集めるでしょう。今日発行される公式の書評と要約を参照のうえ、
作家による要約の確認をお願いします。もう一度おめでとう、タロウ。
大ドイツ、ネパール、米国から翻訳権のオファーがさっそく届きました。」

 タロウは作品を作家パッドから評価装置に転送するため、白いボタン
を押そうと指を動かした。これが定められたとおりの投稿方法である。
タロウは指をボタンの隣に置いたが、少しの間、そしてもう少しの間じ
っとしていた。そして差し込んだ作家パッドをゆっくりと抜き取ると、
部屋を出た。そして強い意志の力で自分の身体をぐっと抑えたまま、エ
レベーターの方へ足早に戻っていった。

 タロウは白いボタンを押し、作品を作家パッドから評価装置に転送し
た。これが定められたとおりの投稿方法である。タロウは座ったままで、
目を閉じ、息をこらえていた。10秒もたたないうちに評価装置がこう
告げた。「おめでとう、現代作家キムラさん。あなたの作品は共同作品
として受理されました。あなたのテクストは11人の他の作家の作品と
一緒にされることになります。11人の中の2人はあなたのような新人
です。これは非常に名誉なことです。共著者の身元をお聞きになります
か?

 タロウは白いボタンを押し、作品を作家パッドから評価装置に転送し
た。これが定められたとおりの投稿方法である。タロウがボタンから人
差し指を離す間もなく、評価装置の母親のようなしっかりとした声が優
しくこう告げた。「お気の毒ですがキムラさん、あなたの作品は受理さ
れませんでした。狼狽したりしないでください。次は作品が受理されネ
ットに載るかもしれないのですから。この一週間はいつになく多くの作
品が提出されたのです。もし眠るのに精神安定剤か何か必要でしたら、
お近くの薬局に処方箋を書きますか」