『アートの現象学』のソースは、
『知覚の現象学』
M.メルロ=ポンティ 著
中島盛夫 訳
法政大学出版局

p3
大切なことは、典拠を数多くならべることではなくて、われわれにと
っての現象学を定着し、客観化することである。われわれと同時代の読
者の多くは、フッサールやハイデガーを読んだ際に、新しい哲学に出会
ったという感じよりは、自分たちが待ち望んでいたものをそこに認めた
という感じを抱いたのであるが、こういう感じを抱かせたものこそ、あ
の、われわれにとっての現象学なのである。現象学は現象学的方法によ
ってしか近づくことができない。それゆえ、よく知られている現象学の
諸テーマを、それらが生のなかでおのずと互いに結びついていたように、
意識的に改めて結びつけてみよう。そうすると恐らく、なぜ、現象学が
ながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域を出なかったか
が、理解されるであろう。

p25 
世界も理性も問題とはなりえない。もしお望みなら、これらは神秘的
であるといってもよい。しかしこの神秘こそこれらを定義しているので
あって、何らかの「解決」によってこれを追い払うことは、問題になら
ない。この神秘はいっさいの解決の手前にあるものなのだ。真の哲学と
は世界をみることを改めて学ぶことである。そしてこの意味では、説話
体の歴史記述も哲学論文と同じほど「深く」世界を示すことができる。
われわれは反省によってばかりでなく、われわれの生涯を賭ける決断に
よってもまた、自分たちの運命を掌握しており、自分たちの歴史の責任
を担っている。そしていずれの場合にも、実行によって自己を立証する
有無をいわさぬ行為が問題となるのである。

p85
 主知主義は対象の覆いにすぎない多様な諸性質を、おのれの限界とし
て呼び出したあげく、そこから一転して対象の意識に移行するのである
が、この意識は、対象の法則もしくは秘密を所有しており、またそのた
め、経験の進展からは偶然性が、対象からはその知覚的な様式が、剥奪
される結果となるのである。テーゼからアンティテーゼへのこの移行、
ある主張を擁護する立場からそれに反対する立場へのこの反転は、主知
主義の常套手段であるが、このような移行、反転にもかかわらず、分析
の出発点は何の変りもなく、もとのまま残されている。

p90
「精神の洞察」とは自然のなかに降りてくる概念ではなくて、みずから
概念にまで高まる自然のことであろう。

p255
 叫びは自然が与えたままの身体を、つまり表現手段としては貧弱な身
体を使うのであるが、これに反して詩は言語を、それも特殊な言語を使
用し、この点で叫びから区別される。このような言語を使用するおかげ
で、実存の転調は表現されると同時に消散してしまうのではなく、詩的
装置のうちに自己を永遠に保存する手段を見い出すのである。しかし詩
は現実生活で使われる身振りから離れるとはいっても、いっさいの物質
的な支えから離脱するわけではない。そのテキストが正確に保存されな
いなら、それは決定的に失われてしまって取り返しがつかないことにな
ろう。詩の意義は何ものにも拘束されずに、理念の天空に住まうもので
はない。それは脆弱な紙の上に記された単語の間に閉じ込められている。
こういう意味においていっさいの芸術作品と同様、詩も物のように存在
するのであって、真理のように存立するのではない。小説についていう
と、なるほど小説の筋書は要約することができ、小説家の「思想」は抽
象的に定式化されうるものであるが、この概念的な意義は、いっそう広
汎な意義から抜きとられたものである。

p256
 一片の小説、詩、絵画、音曲は、それぞれ個体である。つまり表現と
表現されるものとを区別することが許されない存在、したがってじかに
それに接することによってしか、その意味に近づくことができない存在
であり、それらの存する時間的・空間的な場所を離れずに、その意義を
放射するような存在なのである。