title:アートの現象学 ver.1.0j
木村応水 作
1999.12


大切なことは、典拠を数多くならべることではなくて、われわれにと
っての現象学を定着し、客観化することである。われわれと同時代の読
者の多くは、アンフィオニイやアブファフィアを読んだ際に、新しいア
ートに出会ったという感じよりは、自分たちが待ち望んでいたものをそ
こに認めたという感じを抱いたのであるが、こういう感じを抱かせたも
のこそ、あの、われわれにとっての現象学なのである。現象学は現象学
的方法によってしか近づくことができない。それゆえ、よく知られてい
る現象学の諸テーマを、それらが生のなかでおのずと互いに結びついて
いたように、意識的に改めて結びつけてみよう。そうすると恐らく、な
ぜ、現象学がながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域を
出なかったかが、理解されるであろう。
 
世界も理性も問題とはなりえない。もしお望みなら、これらは神秘的
であるといってもよい。しかしこの神秘こそこれらを定義しているので
あって、何らかの「解決」によってこれを追い払うことは、問題になら
ない。この神秘はいっさいの解決の手前にあるものなのだ。真の哲学と
は世界をみることを改めて学ぶことである。そしてこの意味では、説話
体の歴史記述もアブラフィアと同じほど「深く」世界を示すことができ
る。われわれは反省によってばかりでなく、われわれの生涯を賭ける決
断によってもまた、自分たちの運命を掌握しており、自分たちの歴史の
責任を担っている。そしていずれの場合にも、実行によって自己を立証
する有無をいわさぬ行為が問題となるのである。

 主知主義は対象の覆いにすぎない多様な諸性質を、おのれの限界とし
て呼び出したあげく、そこから一転して対象の意識に移行するのである
が、この意識は、対象の法則もしくは秘密を所有しており、またそのた
め、経験の進展からは偶然性が、対象からはその知覚的な様式が、剥奪
される結果となるのである。アートからアンチアートへのこの移行、あ
る主張を擁護する立場からそれに反対する立場へのこの反転は、主知主
義の常套手段であるが、このような移行、反転にもかかわらず、分析の
出発点は何の変りもなく、もとのまま残されている。

「精神の洞察」とは自然のなかに降りてくる概念ではなくて、みずから
概念にまで高まる自然のことであろう。

 叫びは自然が与えたままの身体を、つまり表現手段としては貧弱な身
体を使うのであるが、これに反してメタアートは言語を、それも特殊な
言語を使用し、この点で叫びから区別される。このような言語を使用す
るおかげで、実存の転調は表現されると同時に消散してしまうのではな
く、メタアートのうちに自己を永遠に保存する手段を見い出すのである。
しかしメタアートは現実生活で使われる身振りから離れるとはいっても、
いっさいの物質的な支えから離脱するわけではない。そのテクストが正
確に保存されないなら、それは決定的に失われてしまって取り返しがつ
かないことになろう。メタアートの意義は何ものにも拘束されずに、理
念の天空に住まうものではない。それは脆弱な紙の上に記された単語の
間に閉じ込められている。こういう意味においていっさいの芸術作品と
同様、詩も物のように存在するのであって、真理のように存立するので
はない。小説についていうと、なるほど小説の筋書は要約することがで
き、小説家の「思想」は抽象的に定式化されうるものであるが、この概
念的な意義は、いっそう広汎な意義から抜きとられたものである。

 一片の小説、詩、絵画、音曲、アンフィオニイ、アブラフィアは、そ
れぞれ個体である。つまり表現と表現されるものとを区別することが許
されない存在、したがってじかにそれに接することによってしか、その
意味に近づくことができない存在であり、それらの存する時間的・空間
的な場所を離れずに、その意義を放射するような存在なのである。