title:牧神の午後 ver.2.2j
木村応水 作
1997
『アメリカン・サイコ』 ブレツド・イーストン・エリス
「アルカデイアとは、古代ギリシヤアのペロポネソスにあった地域で、
その始まりは紀元前三七◯年、まわりを山に取り巻かれていた。その都
は……メガロポリスであり、それは政治活動の中心にして、アルカデイ
ア連盟の首都でもあって……」私はポートワインを一口すする。とろ味
があって辛口の、値段の高い酒だ。「ギリシヤ独立戦争の際に、戦火で
潰えた……」ふたたび私は間をおく。「パンはもともとアルカデイアで
神とされた。パンとは誰か、知ってる?」
一瞬たりとも私から目をそらさず、彼女がうなずく。
「パンの奇矯な行動はバッカスのそれと酷似している。夜な夜なニンフ
たちと戯れ、さらにまた昼間は……旅人を驚かして面白がり……それで
パニックなる言葉ができた」
『帽子屋の城』 クローニン
そのうちに、限られた部屋のなかだけでは不十分になり、だんだんが
まんができなくなってきた。そこで無意識のうちに、ドアから出て家じゅ
う歩きはじめた。階段を上がり、一番上の踊り場をこえて、老母の部屋
のドアをあけると、気にさわるような言葉を投げかけては、ひとりくす
くす笑ったり、マットの部屋へはいこんで、ずらりと並べてある化粧水
やポマードを、へどの出るような気持ちでながめたり、ガス燈に一つ一
つ火をつけては、家じゅうにあかあかと燈をともすと、やがて自分の部
屋へ入っていって立ちどまった。ここへくると、なにか隠れた力にでも
引きよせられるように、ナンシーが服を入れておく箪笥の前へそろそろ
と歩みよって、恥ずかしさのまじった、とぼけたような目をして、自分
がくれてやった金でナンシーが買った、きれいな刺繍のある下着類をと
り出し、それをいちいちしらべはじめた。なめらかなレース縁の下着を
手にとったり、やわらかな寒冷紗にさわったり、うすい白麻をいじった
り、ながいストッキングを不格好な手でもち上げたり、口を斜め上に曲
げながら、その香りのよい衣装を、心のなかで持ち主の肉体にきせてみ
たりした。
血走ったブローディの目は、彼にとってつねに脅威と歓喜の源である、
雪花石膏のような彼女の肉体を現に見ているのだったが、心では、いま
手にしている織物の生地が、あの乳色の肌との接触によって、その色を
みんな吸いとってしまったようだ。こうして両手をのばして、ひとりっ
きりで楽しみながら、この薄い服を見ている場面は、ぶざまに年をとっ
た好色のサチール(半人半獣の森の神)がニンフのぬいだ衣装につまず
きつつ、ニンフにつかみかかったままじっと考えこんで、自分の衰えた
空想を気まぐれに刺激しているところとそっくりだった。
『ホテル・ニューハンプシャー』 ジョン・アーヴィング
「彼女は二日前に手首に香水をつけたのよ」フラニーが言った。「言っ
てることわかる?」
「うん」
「しかしそのときには時計のバンドはしてなかった、彼女の兄さんが彼
女の時計をしてたから。それともお父さんか。どっちにしても、誰か男
の人がね。で、その人はすごい汗っかきなの」
「うん」
「それからロンダはつけた香水の上に、時計のバンドをした。そしてそ
のまま一日中、ベッドのシーツをはぎとる仕事をしてたの」
「どのベッド?」ぼくが言った。
フラニーは束の間思案した。「とっても変な人たちが寝たベッドよ」
「“フリッツ曲芸団”って名前のサーカス団がそのベッドで寝たんだ」
「あたり!」フラニーが言った。
「夏一杯!」ぼくたちは声をそろえて言った。
「そのとおり」フラニーが言った。「そしてロンダのにおいをかいだと
きににおうにおいは、ロンダの時計のバンドのにおいね。いま言ったこ
とが全部あったあとの」
たしかにそれは近かったが、ぼくの考えでは、それよりは心持ち、ほ
んの心持ち、いいにおいのようだった。ぼくはロンダ・レイのストッキ
ングを思い出した。あの部屋のクロゼットにぶら下げてあった。彼女が
はいているストッキングの膝の真うしろを嗅いだら、彼女のにおいの本
質がわかるような気がした。
『本当の戦争の話をしよう』 ティム・オブライエン
待ち伏せやその他夜間作戦には彼らはなにやかやとそれぞれ独特のも
のを持っていった。カイオワはいつも新約聖書と音を立てないためのモ
カシン靴を持参した。デイヴ・ジェンセンはカロチンを多量に含んだ夜
間視力増強ビタミン剤を持っていた。リー・ストランクはパチンコを持
っていった。弾薬の心配いらないもんな、と彼は言った。ラット・カイ
リーはブランディーとバーボンを持っていった。撃たれるまでテッド・
ラヴェンダーは夜間照準器を持っていった。それはアルミニウムのケー
スを入れて二・八キロの重さだった。ヘンリー・ドビンズは恋人のパン
ティーストッキングを襟巻きみたいに首に巻いていった。
それが彼という人間の唯一エキセントリックな点だった。パンティー
ストッキングというのはお守りの一種なんだと彼は言った。彼はナイロ
ンの中に鼻をうずめてガールフレンドの体の匂いを嗅ぐのが好きだった。
それによって喚起される記憶を彼は好んだ。彼はときどきそのストッキ
ングを顔に押しあてて眠った。まるで幼児がお守りがわりに毛布を握っ
て眠るのと同じように、それがあると安心して安らかに眠れるみたいだ
った。しかし彼にとってストッキングはまず何よりも魔よけだった。そ
れは彼を守ってくれた。それはスピリチュアルな世界への通路だった。
そこでは物事は優しく親密だった。彼はいつの日にかガールフレンドを
そこに連れていって、暮らすことになるかもしれない。ヴェトナムにい
た我々全員がそうであったように、彼もまた縁起をかつぐようになって
いった。そして彼はそのストッキングが自分を守っているということに
対して確固とした絶対的な信念を持っていた。それは鎧のようなものな
のだと彼は考えていた。我々が深夜の待ち伏せに出かけようとヘルメッ
トをかぶり、防弾ジャケットを着るとき、彼は自分の首にナイロンを巻
きつけるという厳かな儀式をとりおこなった。慎重に結び目を作り、二
本の足の部分を左の肩にだらりと垂らした。もちろんそのことで冗談を
言うものもいた。しかしだんだん我々にも、そのミステリアスな御利益
がわかるようになってきた。ドビンズは不死身だった。怪我もしなかっ
たし、かすり傷ひとつ負わなかった。八月に彼はバウンシング・ベティー
を踏んだ。しかし地雷は不発だった。その一週間後に彼は開けた場所で
激しい小規模の銃撃戦に巻き込まれた。遮蔽物は何もなかった。でも彼
は急いでパンティーストッキングを鼻に押しつけ、深く息を吸い込んで
その魔法に身を任せた。
『エヴァンゲリオンの秘密 アニメ編』 21世紀架空世界研究会
リツコ一瞬の職場放棄、いったいそのわけは?
ネルフ本部内におけるリツコの服装といえば、青いミニの制服に白衣、
ベージュのストッキング、と決まっている。
これは実にリツコらしいコーディネイトだと言えるだろう。
ミニスカートの上に羽織る長い白衣は、博士という立場ゆえ必然のコ
スチュームなんだけど、自分に厳しく、また他人にも厳しい性格のリツ
コがそれをやるっていうことがいかにもリツコらしくってとってもよい。
また、足を白衣で隠したにもかかわらず、それでもまだ足りないのか、
ストッキングは濃い目のベージュ系カラーのものをいつも着用している。
これも、まさしくリツコ、って感じだ。肌色のパンストだといかにも剥
き出してます、っていうふうだから、自分でも嫌なんだろう。隙のない
女、っていうイメージは何としても堅持したいと思っているのだ、リツ
コは。
しかし、これほどまでにベージュパンストを愛しているリツコなのに、
これを放棄してホワイト系のパンストにはき替えてしまったことがある。
しかも、それはエヴァと第三使徒が闘っている最中の出来事だ。第壱
話後半部でのリツコの脚は、確かにいつも通りのベージュであった。と
ころが、第弐話後半部でエヴァが再起動後に暴走した時には、リツコの
脚は白いパンストをはいているのだから、びっくりしてしまった。
こんなに忙しい、いや、忙しいを通りこして大変な時に、よくもまあ
リツコはパンストなんかはき替えに行く時間があったものだ。
おそらく、ベージュのパンストが伝線でもしたのだろう。プライドの
高いリツコだから、伝線パンストなんかはいてられなかったのだ。それ
に気付いたから、人目を避けながら速やかにトイレにでも行き、パンス
トを替えたのだ。けれども、あいにくベージュのパンストを切らしてて、
あるのはホワイトカラーだけであった。
白いパンストなんて私のイメージじゃない、リツコはそう思いながら
も、任務を遂行させることが最優先と考えて、諦めて白いパンストに脚
を入れたのだ。
冷静沈着、何事が起こっても決して心乱すことのないリツコがパンス
トの伝線ごときに動揺し、一時的ながら職場を放棄するなんて、これは
ちょっとした事件である。
幸い、エヴァ初号機が初出動だったので、誰もがそのことばかりに気
を取られていたからリツコの職場放棄には気付かなかった。
だけど、それにしても、おそろしいのはリツコの早業である。パンス
トなんて慌ててはき替えると、爪で引っかいて、セカンド伝線を起こし
たりするものだが、リツコの場合、それは大丈夫。慌てながらも、やっ
ぱり冷静にことを進めて行くのである。
こういう早業を難なくやり遂げてしまうのも、ひとえにリツコが仕事
の鬼だからだ。デートで男は待たせても、仕事には遅れてならじという
根性、これは大したものである。
『結婚式の写真』 アニタ・ブルツクナー
ベティはバスに乗っているときから、窓ガラスに自分の横顔を映して
みようとして騒いでいたし、カリアーニ氏の家に着いたときには、スト
ッキングをなおそうとしてスカートをパッと上げ、ふくらはぎの裏側を
色っぽく撫でたと思うと、さらに膝から腿にまで手をのばしたのだった。
「ベティ!」ミミは仰天した。「はしたないまねをして! カリアーニ
先生の息子さんに見られたらどうするの?」しかし、ベティは悠然とし
ている。ストッキングをなおしたりするのも、要するにカリアーニ氏の
息子がお目当てなのだ。
『トム・ジョウンズ』 ヘンリー・フィールディング
「実はですね、お嬢さま、」オナー女史が言う、「先週のいつでしたか
私が仕事をしている部屋にあのかたがいらしって、椅子の上にお嬢さま
のマフがあったのですが、あのかたはそれに手を入れて、つい昨日お嬢
さまからいただいたあのマフですが。まあジョウンズさま、お嬢さまの
マフが伸びてだめになります、と私が申しましたが、やはり手を入れた
まま、そのうちにマフにキスされました、ああいうキスは私見たことが
ありません。」「私のとは知らなかったのだろうね、」ソファイアがた
ずねる。「まあお待ちください。あのかたは何度も何度もキスされて、
こんな可愛いマフはないと言われるのです。まあ何十ぺんも見ていらっ
しゃるマフなのに、と私が申しますと、そうだけれどお嬢さんのそばで
は何もほかのものは美しくなんか見えやしないよ、と言われるのです。
いえ、それだけじゃありません。が気を悪くなさいませんように、あの
かたに悪げはないのですから。ある日お嬢さまがだんなさまにパープシ
コードを弾いてお聞かせだった時、ジョウンズさまはお隣りの部屋にお
いででしたが、なにやら憂鬱そうなお顔つき。まあジョウンズさまどう
なさいました、なにを考えこんでおいでですと私が申しますと、夢から
さめたように立ちあがって、そりゃおまえ、あの天使のようなお嬢さん
の演奏を聞いてなにを考えるものかね、とおっしゃいました。それから
私の手を握って、ああ、お嬢さんのおそばにいる人がうらやましいと言
ってため息をつかれました。ほんとうにあの人の息は花束のようなよい
匂いです。がもちろんあのかたに悪げはない。お嬢さまもだれにもお話
しにならないようにお願いします。あのかたはだれにも言うなと言って
私にクラウン銀貨を一枚くださり、書物に手をおいて誓言をおさせにな
ったのです。もっとも聖書ではなかったと思いますが。」
『アシスタント』 マラマッド
そのあとでひとりになったとき、窓ぎわに立った彼はしきりと自分の
過去のことを考え、そして新しい生活をしたいと思った。いったい、自
分は一度でも自分の願ったことを実現できる人間だろうか? ときおり
は裏庭に向く窓からぼんやり見やったりした。うつろな目つきでいると
きもあれば、上にある物干綱のあたりを見ているときもある。風にゆっ
くり揺れる物干し綱にはいろいろの洗濯物がひるがえっている。モリス
のかかしじみた上下つなぎの下着、慎ましく縦に二つ折りされたアイダ
の幅ひろいブルーマ、そして彼女のふだん着の服はいつも、彼女の娘の
花のようなパンティーやたえず揺れているブラジャーを守るかのように
下がっていた。
『狂気もまた愛に渇く』 マリオ・トビーノ
それはつまりこうだった。家が空き家になると、ソレーラは自由に出
入りができるようになったが、これは彼がいつもしてきたことだ。誰も
怪しむに足りない。
こうして、さびしい家に通い、部屋という部屋を歩きまわるようにな
ったのだ。彼は一軒家にひとりいるということがなかった、大きな美し
い家にひとりで、主人顔をするということが絶えてなかった。たとえむ
さくるしい小部屋にせよ、ひとりでいることがなかった。一方、この家
にはまだ家具、備品、衣類、下着などを詰めたたんす、戸棚がたくさん
あり、中には絹製品でさらさら音を立て、ほれぼれするような色が塗っ
てあった。いってみれば役にも立たないものながら、彼にとっては珍し
いかぎりの品である。
寝室には大きな鏡があった。家の中には静寂が支配していた。院長は
町に診療所を持ち、夫人はもうほとんど来なくなった、ごく稀にしか。
派手な、秘密めいた感じの絹を身にあててみる、着てみる、はおって
みる、それも彼にとっては女神にも等しい夫人のものを。
レースを、軽いシャツを握りしめて、けいれんしながら笑った。と、
そこへ突然の発作に見舞われたのである。着ているものを脱ぐ、という
か、はぎ取ると、鏡の前で裸になった。われながら生まれて初めて見る
姿である。そこで一番美しいシュミーズ、その赤いふんわりしたのを手
に取った。たちまち、それを身につけた。
少しきゅうくつだ。鏡の中の自分を見つめる。よろこびが、笑いが彼
を包みこみ、まるで夫人のように、酒場の歌い手のようにしなを作り、
悦楽を楽しむ身ぶりをみせた。さて、どれほどの時間がたったものか。
そのとき突然、よく知りつくした、いとしいあの足音が聞こえたが、
その瞬間は恐ろしかった。自分に初めてのシャツを、光る靴を買ってく
れ、自分を守ってくれた夫人だというのに。その夫人が近づいてきたの
に、自分は裸だ、シュミーズしか着ていない、それも彼女のシュミーズ
を。
夫人は彼に気づくと、大きな目を見開き、叫び声を上げたまま、棒立
ちとなり、不快の表情を浮かべながら、やおら走り去った。階段をころ
がるように下りて行った。
『万葉集』 第十四巻
筑波峰(ちくはね)の新桑繭(にひぐはまよ)の衣あれど
君が御衣(みけし)しあやに着欲しも