『Art OS 98』のソースは、
『スペアーズ』
マイケル・マーシャル・スミス 作
嶋田洋一 訳
ソニーマガジンズ

p106-
 ホウイーがいなくなるとわたしはコンピューターからドライブを抜き、
マルのドライブを代わりに押し込んだ。デジタル・カメラをシリアル・
スロットに接続し、本体電源を入れる。
「パスワード」とコンピューターがぶっきらぼうに言った。
「何だって?」思わずそう問い返さずにはいられなかった。スピーカー
から聞こえてきたのは、間違えようのないエド自身の声だったのだ。
「パスワードだよ、間抜け」
「知らない」
「だったら考えろ。おれにはどうにもできない」
「サモイ」それはたまたま頭に浮かんだ言葉で、皮肉でもなんでもなか
った。
「正解」マシンはそう言い、スタートアップ画面を表示しはじめた。
わたしははかぶりを振った。「やれやれ、マル」とつぶやく。セキュ
リティには弱い男なのだ。
「いい気にならないほうがいいぞ、お利口さん」マシンがぴしゃりと言
った。「サモイってのは本物のパスワードじゃない。正しくは数字と記
号を組み合わせた30桁の文字列で、発音するのも一苦労なんだ」
「じゃあどうしておれをアクセスさせた。それにおまえ、何を苛々して
るんだ?」
「マルはループホールを作っといたのさ。二番目に上等な日本の漬物ブ
ランド名を言うやつなんか、おまえしかいないと考えたんだ。
その前におれはもう声紋をチェックしてた。ちょっとからかっただけさ。
苛々してるのはそっちだろうが」
「おい、喧嘩を売ってるのか」
「ペンチとでも戦うのかい」
「マルのボードの、デフォルトの仮想人格があるだろう」
「かもな」
「あるのか、ないのか」
「どうしてそんなことを? 自分の声が気に入らないのか」
「声は問題ない」
「この仮想人格は、マルがわざわざダウンロードしてきたんだぜ。
今までの中でいちばんおまえの人格に近いって」
「おれはずっとその人格と暮らしてるんだ。ほかのを頼む」
「さもないと?」
「さもないと別のドライブから起動して、おまえは半田ごてで消し去っ
てやる」
「タフだな。二つある。“おたく”と“あばずれ”だ」
「“おたく”がいい」
「だめだな。おまえの声を入れるために、マルが音声ファイルを
消去しちまった」
「じゃあ“あばずれ”だ」
「後悔するぞ」

p254-
 イフ文のループの中に囚われていては、理解などできないのだろう。
それが意味を持つためには、自分が死んでいるしかないのかもしれない。
人生と機会によって書かれるコードは人を引きずりまわし、人は、悲し
みと退屈と恐怖を順番に繰り返しながら、ただそのコマンドが実行され
るのを見守ることしかできない。いつもそうだが、行動を起こさせるの
は感情であり、脳にはそこに介入する力はない。言い換えれば、わたし
は少々気が滅入っていた。

 はじめのうちは、当時インターネットと呼ばれていたものが原因だと
言われていた。情報量があまりに大きくなったため、ネットワークが重
くなりすぎ、やがて猫を飼っていた人々がいっせいに、それが始まった
ことに気づいたのだと。だがこうした憶測は事実ではなかった。
 たしかにインターネットが崩壊してから二週間後にギャップは発見さ
れた。その関連はとうとうわからなかった。人々はすでに存在していた
“マトリックス”を利用するしかなくなり、インターネットは二度と復
活しなかった。
 だがギャップはつねにそこにあって、われわれを待ち受けていたのだ。
 コンピューター用のコードに欠陥があったのだとも言われた。内部の
原野にあって、意味を機能として花開かせるチップという単純な存在に
単純な命令を与える、完璧にして不可侵と思われていた、シンタックス
の小さな流れに問題があったのだと。コンピューター用の人工の言語か
らは曖昧な二義性など排除されていると信じられていたが、実は第一日
目からすでに遺漏があったのだ。英語では、同じ文でも抑揚を変えると
ニュアンスが変化する。しかしわれわれは、状況がコードにもたらすニュ
アンスの違いを意識してこなかった。コンピューターがどんなふうにも
のを考えているかなど、本当のところは誰にもわからなかったからだ。
言葉にならない言外の意味、それとないほのめかし、裏に隠された暗示、
そうしたものが集まって、どこかへ移動し、別の場所を作ったというの
がもう一つの説明だった。
 人間のの精神をなぞる形で作られたプログラミング言語によってコー
ドを書くという方法が終わりを告げたときには、これでやっと問題が解
決すると考えられた。完璧なシンタックスで書かれたコードは一行の中
にアートのすべてを記述し、その記述の内容はオリジナルを書いた本人
にさえよく理解できなくなっていた。プログラムの生成過程は、子供時
代のように手の届かないものになった。もちろんソフトウエアは動いた。
驚くほどうまく動いた、が、コンピューターへの指示の中に何か別のも
の、何か意図しないものが紛れ込んでいるのではという恐怖はいっそう
大きくなった。とくにコンピューターそのものがコードを書くようにな
ると、その恐怖はいっそう大きくなった。コンピューターは人間よりも
ずっと腕がよかったものの、その動機にはときに不明瞭な部分があり、
コードの解読が不可能になると、人間には何が書かれているのかを解き
明かすことさえできなくなった。われわれのいないところで、いったい
どんなことが話されているのか。その話しを立ち聞きすることは、もは
や人間には許されていなかった。
 プログラミング言語が使われなくなるとギャップの拡大も止まったの
で、何かの関連はあったのだろう。だがたとえ関連があったにしろ、こ
れまで書いたことはすべて、一種の促進要因にすぎなかったのではない
かと思う。人々が何を捜しているのかもわからずに捜しつづけていたも
のを、われわれが発見するための手がかりだったというわけだ。

 世界の無意識の中へと入り込む方法を見つけたわれわれは、それを尊
重して影響力がじわじわと現実世界に洩れ出すままにしておくのではな
く、それを変化させ、支配しようとした。まるで現実の土地のように、
そこを自分たちのものにできると思ったのだ。われわれはエデンの園を
発見し、ナパーム弾を撃ち込んだ。オズの井戸を見い出して、そこに小
便をした。現実世界の正気を保たせている力の源泉を見つけ出し、狂気
のウイルスをばらまいた。父がつねづねどこかに隠れていると信じてい
た、この世界の真実さえ発見していたのかもしれない。だがそれは手を
触れずにそっとしておくべきものだった。