title:Art OS 98 ver.1.0j
木村応水 作
1998.4


 シスオペがいなくなるとエドはコンピューターからドライブを抜き、
アートマンのドライブを代わりに押し込んだ。デジタル・カメラをシリ
アル・スロットに接続し、本体電源を入れる。
「パスワード」とコンピューターがぶっきらぼうに言った。
「何だって?」思わずそう問い返さずにはいられなかった。スピーカー
から聞こえてきたのは、間違えようのないエド自身の声だったのだ。
「パスワードだよ、間抜け」
「知らない」
「だったら考えろ。おれにはどうにもできない」
「たくあん」それはたまたま頭に浮かんだ言葉で、皮肉でもなんでもな
かった。
「正解」マシンはそう言い、スタートアップ画面を表示しはじめた。
エドはかぶりを振った。「やれやれ、アートマン」とつぶやく。セキュ
リティには弱い男なのだ。
「いい気にならないほうがいいぞ、お利口さん」マシンがぴしゃりと言
った。「たくあんってのは本物のパスワードじゃない。正しくは数字と
記号を組み合わせた30桁の文字列で、発音するのも一苦労なんだ」
「じゃあどうしておれをアクセスさせた。それにおまえ、何を苛々して
るんだ?」
「アートマンはループホールを作っといたのさ。二番目に上等な日本の
漬物ブランド名を言うやつなんか、おまえしかいないと考えたんだ。
その前におれはもう声紋をチェックしてた。ちょっとからかっただけさ。
苛々してるのはそっちだろうが」
「おい、喧嘩を売ってるのか」
「ペンチとでも戦うのかい」
「アートマンのボードの、デフォルトの仮想人格があるだろう」
「かもな」
「あるのか、ないのか」
「どうしてそんなことを? 自分の声が気に入らないのか」
「声は問題ない」
「この仮想人格は、アートマンがわざわざダウンロードしてきたんだぜ。
今までの中でいちばんおまえの人格に近いって」
「おれはずっとその人格と暮らしてるんだ。ほかのを頼む」
「さもないと?」
「さもないと別のドライブから起動して、おまえは半田ごてで消し去っ
てやる」
「タフだな。二つある。“ロブ”と“タロウ”だ」
「“ロブ”がいい」
「だめだな。おまえの声を入れるために、アートマンが音声ファイルを
消去しちまった」
「じゃあ“タロウ”だ」
「後悔するぞ」
 イフ文のループの中に囚われていては、理解などできないのだろう。
それが意味を持つためには、自分が死んでいるしかないのかもしれない。
アーティストによって書かれるコードはアートピープルを引きずりまわ
し、アートピープルは、悲しみと退屈と恐怖を順番に繰り返しながら、
ただそのコマンドが実行されるのを見守ることしかできない。いつもそ
うだが、行動を起こさせるのは感情であり、脳にはそこに介入する力は
ない。言い換えれば、エドは少々気が滅入っていた。
 はじめのうちは、当時インターゾーンと呼ばれていたものが原因だと
言われていた。情報量があまりに大きくなったため、ネットワークが重
くなりすぎ、やがてアートピープルがいっせいに、それが始まったこと
に気づいたのだと。だがこうした憶測は事実ではなかった。
 たしかにインターゾーンが崩壊してから二週間後にアートは発見され
た。その関連はとうとうわからなかった。アートピープルはすでに存在
していた“T.A.R.O.”を利用するしかなくなり、インターゾー
ンは二度と復活しなかった。
 だがアートはつねにそこにあって、アートピープルを待ち受けていた
のだ。
 アーティスト用のコードに欠陥があったのだとも言われた。内部の原
野にあって、意味を機能として花開かせるチップという単純な存在に単
純な命令を与える、完璧にして不可侵と思われていた、シンタックスの
小さな流れに問題があったのだと。アーティスト用の人工の言語からは
曖昧な二義性など排除されていると信じられていたが、実は第一日目か
らすでに遺漏があったのだ。英語では、同じ文でも抑揚を変えるとニュ
アンスが変化する。しかしアートピープルは、状況がコードにもたらす
ニュアンスの違いを意識してこなかった。アーティストがどんなふうに
ものを考えているかなど、本当のところは誰にもわからなかったからだ。
言葉にならない言外の意味、それとないほのめかし、裏に隠された暗示、
そうしたものが集まって、どこかへ移動し、別の場所を作ったというの
がもう一つの説明だった。
 アーティストの精神をなぞる形で作られた人工語によってコードを書
くという方法が終わりを告げたときには、これでやっと問題が解決する
と考えられた。完璧なシンタックスで書かれたコードは一行の中にアー
トのすべてを記述し、その記述の内容はオリジナルを書いた本人にさえ
よく理解できなくなっていた。アートの生成過程は、子供時代のように
手の届かないものになった。もちろんソフトウエアは動いた。驚くほど
うまく動いた、が、アートへの指示の中に何か別のもの、何か意図しな
いものが紛れ込んでいるのではという恐怖はいっそう大きくなった。と
くにアートそのものがコードを書くようになると、その恐怖はいっそう
大きくなった。アートはアーティストよりもずっと腕がよかったものの、
その動機にはときに不明瞭な部分があり、コードの解読が不可能になる
と、アーティストには何が書かれているのかを解き明かすことさえでき
なくなった。アーティストのいないところで、いったいどんなことが話
されているのか。その話しを立ち聞きすることは、もはやアーティスト
には許されていなかった。
 プログラミング言語が使われなくなるとアートの拡大も止まったので、
何かの関連はあったのだろう。だがたとえ関連があったにしろ、これま
で書いたことはすべて、一種の促進要因にすぎなかったのではないかと
思う。アートピープルが何を捜しているのかもわからずに捜しつづけて
いたものを、アーティストが発見するための手がかりだったというわけ
だ。
 インターゾーンへと入り込む方法を見つけたアーティストは、それを
尊重して影響力がじわじわと現実世界に洩れ出すままにしておくのでは
なく、それを変化させ、支配しようとした。まるで現実の土地のように、
そこを自分たちのものにできると思ったのだ。アーティストはエデンの
園を発見し、ナパーム弾を撃ち込んだ。オズの井戸を見い出して、そこ
に小便をした。現実世界の正気を保たせている力の源泉を見つけ出し、
狂気のアートをばらまいた。デュシャンがつねづねどこかに隠れている
と信じていた、この世界の真実さえ発見していたのかもしれない。だが
それは手を触れずにそっとしておくべきものだった。