新言語芸術アンフィオニイ第一作
title:孤独あるいは連帯 ver.2.2j
木村応水 作

ヤン・フートin鶴来 参加作品
1991年5月31日〜6月9日
企画:ワタリウム美術館


 『シェリタリング・スカイ』 ポール・ボールズ
 書くならこっそり書かねばならない、書くことを実行に移すためには、
どうやらそれが唯一の方法らしい。だが、やがて彼がホテルに落ち着い
て、エックミュール・ノワズーでカフェ暮らしの雛形のような生活をは
じめてみると、書くべきことは何一つなかった。心の中で、日常をみた
すばかげた些事と紙に言葉を記すというまじめな仕事とのあいだに、何
かしらの結び付きを設定することが彼にはできなかったのだ。自分が完
全にくつろいだ気持ちになることをさまたげているのは、おそらくタナ
ーだ、と彼は考えた。タナーの存在が、たとえ目立たぬものであるにせ
よ、ある一つの存在を作り出していて、それが必要不可欠と思われる内
省的な境地に入ることをさまたげているのだ。生活を生きているかぎり、
それについて書くことはできない。一方が終わったところから、もう一
方が始まる。そして、きわめて漠然とした形であるにせよ、彼の参加を
要求するような状況が存在することは、それだけで書くことを可能性の
範囲外に置くものに充分なのだ。だが、それならそれでいい。彼はおそ
らくいいものを書きはしないだろうし、したがってそこから何の喜びを
も汲みとりはしないであろう。それに、たとえ彼の書くものがいいもの
であったにせよ、はたしてどれだけの人々がそのことを知ってくれるだ
ろう? 何の痕跡も残さず、まっしぐらに砂漠の中へ突き進めばそれで
いいのだ。


 『嘔吐』 サルトル
 突然、彼が最近参照した書物の著者の名が、記憶に浮かんだ。ランベ
ール、ラングロウ、ラルバレトリエ、ラステックス、ラヴェルニュ。私
は忽然と悟った。独学者の方法を発見したのだ。彼は書物をアルファベ
ット順に読んでいる。
 私は感嘆ともいうべき気持ちで、彼を注視する。これほどに規模の大
きな計画を、焦らず執拗に実現するには、いかなる意志を必要とするで
あろうか。七年前のある日(彼は七年前から勉強していると言っていた)
彼は意気ようようとこの部屋に入ってきた。そして四方の壁をぎっしり
埋めている数限りない書物を眺め廻して、ほとんどラスチニャックのよ
うに、「さあこれから、人類の全知識との勝負だ」と言ったに違いない。
それから彼は、最右翼の第一段の本棚から、第一番目の書物を取ってく
る。そして尊敬と畏怖の感情とともに確固不動の意志を持って、その第
一頁を開く。いま彼はLまできている。Jの次がKであり、Kの次がL
である。彼は乱暴にも、しょうし類に関する研究から、量子論に関する
研究に移り、チムールに関する著作から進化論に反対するカトリック教
徒のパンフレットに移る。一瞬とても彼はとまどったりはしない。彼は
すべてを読んだ。彼は自分の頭脳に、単生生殖に関して知られているこ
との半分と生体解剖に反対する議論の半分とを、貯蔵したはずである。
いま、背後にも行手にもひとつ宇宙がある。そして彼が、最左端の最後
の段の最後の書物を閉じながら、「さあ、これから?」とつぶやくであ
ろう日が近づく。


 『北回帰線』 ヘンリー・ミラー
 ぼくは存在するだけだ。かつて文学であったもののことごとくが、ぼ
くから抜け落ちてしまった。本に書くことなど、もう一つとしてない。
ありがたいことだ。
 ではこれは何だ? これは小説ではない。これは罵倒であり、ざんぼ
うであり、人格の毀損だ。言葉の普通の意味で、これは小説ではない。
そうだ、これは引き伸ばされた侮辱、「芸術」の面(おもて)に吐きか
けた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美・・・・何でもいい、
とにかくそういったものを蹴飛ばし拒絶することだ。ぼくは諸君のため
に歌おうとしている。少しは調子がはずれるかもしれないが、とにかく
歌うつもりだ。諸君が泣きごとを言っているひまに、ぼくは歌う。諸君
のきたならしい死骸の上で踊ってやる。

 「おれはパリがきらいだ!」と彼は泣きごとを言う。「朝から晩まで
カルタばかりしている馬鹿野郎ども・・・・あいつらを見ろ! そして
このものを書くという仕事! 言葉と言葉をならべたって何の役に立つ
んだ。書かずに作家になることはできんのかね。おれが一冊の小説を書
いたとしても、それで何が証明されるのだ! とにかく、おれたちは小
説を書いてどうしようと言うんだ? 小説は、いままでに、ありすぎる
ほどある・・・・」

 「おれは彼等の上をゆく傑作を書きたいというのではなく、彼等と違
ったものでありたいのだよ」と彼は説明する。だから、作品には取り組
まずに、作品を片っ端から読破し、自分が彼等の私有財産の上を踏みつ
けることがないよう、それを確実にしておこうとするのである。しかも
多くを読めば読むほど彼等は軽蔑的になる。どの作家にも満足しない。
彼が自己に課している高度の完璧にまで到達している作家は一人もいな
い。そこで、自分はまだ一章も書いていないことは完全に忘れて、その
作家たちのことを高いところから見下ろすような口調で語るのである。
まるで彼の名を冠した著作が一書棚ほども存在し、しかもそれらは、あ
まねく人の熟知するところであり、いまさら書名を述べる必要もないと
いわんばかりの調子なのである。

 古典を腹いっぱい詰めこんでいる奴は一人残らず人類の敵だ。


 『マルドロールの歌』 ロートレアモン
 例外的なケースを一般化するのはよそうじゃないか、それだけは頼む、
とは言ってもおれの本性は可能な事象の秩序の中に浸っているんだ。確
かに、君のいう文学の両極端、君が理解するそれとおれが理解するそれ
との間には、無限の中間項があって、区分をさらに増やしていくことだ
ってたやすいだろうさ、だがそれはくその役に立つまいし、文学という
一つのきわめて哲学的な概念に偏狭で虚偽の事柄をなにかつけ加える危
険があるだろう。

 今日これから、おれは三十ページのちょっとした小説をつくるつもり
だ、この寸法はほとんど動かないだろう。いつの日かおれの理論が、あ
れやこれやの文学形式に受け入れられて栄冠を手に入れるのを早く見た
いと望みながら、おれはついにいろいろ模索したあげくに、自分の決定
的な方式を見付け出したと信じている。それは最上の方式だ、なぜなら
それは小説(ロマン)なんだ! この雑な序文は、まずどこへ連れて行
かれようとしているのか一向わかっていない読者を、言ってみれば驚か
したという意味で、おそらく十分自然に見えるような具合には選出され
なかった、だがこのはなはだしい驚愕という感情、こいつは一般にはパ
ンフレットを読んで時を過ごす者たちをそれに近寄らせないようにしな
ければならないのに、おれはそれを作り上げるのに全力を注いだんだ。
実際、おれの善意にもかかわらず、そうしないわけには行かなかったん
だ。君が煤けた顔をした背教者の序文をもっとよく理解するのは、さら
に後になって、小説がいくらか姿を現した時になってからだろう。

 そしてこの種の物語では、情熱は、いかなる種類であれ、一たん与え
られると、おのが道を開くためにいかなる障害も恐れないので、ありふ
れた四百ページ分のゴム・ラッカーを絵の具皿の中で引き伸ばす必要は
ない。半ダースの詩節で言われうること、それを言わねばならぬ、そし
て沈黙するのだ。

 詩はもっとも高度な意味で幾何学だ。ラシーヌいらい、詩は1ミリメ
ートルも進歩しなかった。退歩した。だれのおかげか? われわれの時
代のふにゃふにゃの大頭どものおかげだ。女の腐ったような奴ら、憂い
の顔のモヒカン族シャトーブリアン、ペチコートをはいた男セナンクー
ル、ぶつぶつ屋の社会主義者ジャン=ジャック・ルソー、頭の狂った幽
霊アン・ラドクリフ、アルコールの夢の奴隷エドガー・ポー、暗黒の相
棒マチューリン、割礼を受けた男女両性者ジョルジュ・サンド、並ぶも
のなき食いもの屋テオドール・ゴーチェ、悪魔の捕虜ルコント、お涙頂
戴の自殺者ゲーテ、お笑いの自殺者サント・ブーヴ、泣かせるこうのと
りラマルチーヌ、ほえる虎レールモントフ、陰気くさい熟れそこないの
背高のっぽヴィクトル・ユゴー、サタンの模倣者ミッケーヴィッチ、知
性のシャツを気忘れたしゃれ男ミュッセ、地獄のジャングルの河馬バイ
ロンのおかげだ。

 剽窃は必要である。進歩は剽窃を含んでいる。それは一人の作者の文
章をぐっとつかみ、その表現を利用し、誤った観念を抹消して、正しい
観念で置き換えるのだ。

ぼくらは抽象的な学問の研究に多くの時間を割いてきた。この研究で
わずかな交際しか得られないことは、ぼくに研究に対して嫌気を起こさ
せはしなかった。ぼくが人間の研究を始めた時、ぼくは抽象的な学問が
人間に適していることを知り、それをしらない人々よりも、それに深入
りしているぼくの方が、自分の状態について無知ではないことに気がつ
いた。ぼくは他の人々が抽象的な学問にちっとも身を入れないのを大目
に見てやったのだ! ぼくは人間の研究で多くの友だちが見つけられる
とは思わなかった。それこそ人間に適わしい研究なのだ。ぼくは間違っ
ていた。人間を研究する人は、幾何学を研究する人より多い。


 『サント・ブーヴに反論する』 プルースト
 ところで、芸術にあっては、(少なくとも科学的な意味での)先達も
先駆者もいない。一切は個人のうちにあり、その各個人が、芸術や文学
の試みを、独力で、最初からやりなおすほかはないのだ。先行者たちの
作品は、科学の場合のように、後代の者がそのまま利用できる既定の真
理を成してはいない。天才作家といえども、今日のいま、一切のことを
しなければならない。彼は、ホメロスよりもはるか先まで進んでいるわ
けではないのだ。

 該博な教養と、文筆家としての長年の修練、そこから一体、何が残っ
たか。一切の誇張を避け、陳腐で抑制のきいていない表現を一つ残らず
棄て去ること、それだけだ。


 『神々の復活』 メレジュコーフスキイ
 老人は口をつぐんだ、彼の顔は急に厳しくなって来た。彼は相手の手
を取って、静かな物々しい調子で言い出した。
「ジョヴァンニ、わしの云う事を聴いて、よく腹に入れるがいい。わし
らの教師は、昔のギリシャやローマ人だ。彼等は、人間がこの地上でな
し得る、すべての事をなし遂げた。我々はただ彼等の足跡を踏んで、そ
の真似をするより仕方がないのだ。なぜといって、弟子は師より優らず、
というたとえもあるくらいだからな。」

 レオナルドは沈黙を守っていた。彼の顔は静かで、そして愁いを帯び
ていた。彼は真理の奉仕者と自認している人々に交じりながら、自分が
如何に孤独であるかを悟った。自分と彼等との間に、越え難い深淵のあ
る事が分かった。彼は憤怒の情を覚えたが、それは敵に対するものでは
なく、今まで数限りなく嘗めた苦い経験を無視して、またもや懲りずに、
真理という物はただ示しさえすれば、人がすぐに受け入れてくれるとい
う希望に吊られながら、いい加減の時に口をつぐまないで、論争を避け
る事の出来なかった、自分自身に対する憤怒であった。


 『漁船の絵』 アラン・シリトー
 喧嘩を続けたくなかったのだが、向こうが何か言えば、こっちも言い
返して、ぐずぐず長引かせていた。
が、少したつと、本がひったくられたのだ。
「この本きちがい!」
と金切り声をあげて、
「本、本て、本のことばかり。本読み亡者め!」
そして本を、石炭の上に投げ、火かき棒で、奥の燃えているほうへぐい
ぐい押し込む。


 『フランキー・ブラー』 アラン・シリトー
 「ギリシャ語辞典に、言語のホーマー。彼はギリシャ語まで知ってい
るのか!(どういたしまして、この本はみんなぼくの義兄のものなのだ)
シェイクスピアに金枝篇、テープや紙をしおりにはさんだ聖書ときたか。
彼は聖書まで読むらしい! ユーリピデスや何やらに、カビの生えかか
ったベデカ旅行案内書が十数冊と。妙な本を集めるものだな! プルー
ストが十二巻! おれなどとてもこんなに読めんな。(ぼくだってご同
様)ドストエフスキーか。いやはやこいつは驚いた、まだ今でもドスト
エルスキーを読む奴があろうとは」


 『消えた光』 キプリング
 「それでもお前は、このロンドンに踏みとどまって、世間のやつらが
ぽかんと口を開けて自分の絵に見とれていてくれるなんて想像していた
いのか。ちょっと考えただけでもわかりそうなもんだがねえ。そういっ
た人間の二万人ぐらいが、飯をほおばりながらその合間にちょいと顔を
上げては、自分にはちっとも興味のない何物かについて、何かモグモグ
言うと、つまりはそれが、掛け値ないとこ、名声だとか、評判だとか、
悪名だとか、まあ、言い方はしゃべるやつの趣味や気まぐれで何とでも
なるが、とにかくそういうものになるんだぞ」


 『左ききの女』 ペーター・ハントケ
「今でも書いてる?」
父親は笑った。
「本当は、死ぬまで書き続けるつもりかって聞きたいんじゃろ、違うか?」
父親は女に面と向き直った。
「わしはいつのころからか、間違った人生に踏み込んだような気がする。
戦争とか、あるいはほかのことのせいにするつもりはない。書くってこ
とは弁明みたいだと、そんな気がすることがある」
彼はくっくっと笑った。
「もちろん、そうじゃないって思うこともある。わしは孤独だ。寝ると
き、誰のことも思い出せないことがあるくらいだ。理由は簡単、その日
一日誰ともいっしょにおらんかったからだ。思い出す誰もいないという
のに、なにを書けというのだ? 話は変わるが、たとえば今つきあっと
る相手がいるのは、なにはともあれわしに一旦事があったときに早いこ
と見つけてもらうためだ。死体になってからそういつまでも転がっとる
んではかなわん」


 『ヨナ』 カミュ
 ランプは一晩中さらに翌日の朝じゅうともったままだった。ラトーと
かルイズとか、見舞に来る者に対って、ヨナはただ、「ほっといてくれ、
仕事をしてるんだ」とだけ答えた。昼に、石油をもとめた。ランプは、
くすぶっていたのが、また強い光になって、晩までともっていた。ラトー
はルイズと子供たちとともに夕飯をとるために残った。真夜中に彼はヨ
ナに別れを告げた。相変わらず明るい屋根裏の前で、彼はちょっと待っ
たが、やがて何も言わずに帰った。二日目の朝、ルイズが起きたときに
も、ランプはまだともっていた。
 美しい一日がはじまっていたが、ヨナはそれに気づかなかった。彼は
カンヴァスを壁ぎわに裏返した。疲れきって彼は待っていた。坐ったま
ま、両手は膝の上にのせたままだった。自分はもう仕事をしないだろう、
と彼は心につぶやいた。彼は幸福だった。子供たちのつぶやき、水の音、
食器類の触れ合う音が聞こえた。ルイズが話している。通りをトラック
が通ると、大きな窓ガラスが振動する。世界はあそこにある、若々しく、
愛すべく……ヨナは人間たちのたてる美しいざわめきに耳をすましてい
た。あんな遠くにあって、それは彼の内部のこの快活な力、彼の芸術を
妨げはしなかった。また、彼が言うことのできない、永遠の沈黙に守ら
れているが、しかし自由な激しい大気のなかで、彼を万物の上に置くと
ころの、この思想をも……子供たちは部屋から部屋へかけまわっている。
娘が笑っている。ルイズも今は笑っている。久しい前から妻の笑い声は
聞いたことがなかったのだが……彼はこれらを愛していた! どんなに
愛していただろう。彼はランプを消した。戻ってくる闇のなかで、あそ
こ、光りつづけているのは彼の星ではなかったか? それは彼の星だっ
た。彼はそれを見分けて、心は感謝でいっぱいだった。音もなく彼が倒
れたときですら、彼はまだ星を眺めていた。
「何でもない」呼んできた医者はしばらくしてこう申し渡した。「仕事
のやりすぎです。一週間したら起きあがれるでしょう」「直りますって、
確かでしょうか?」と顔をひきつらせてルイズが言う。「直りますよ」
別の部屋でラトーはカンヴァスを眺めていた。それは全然白のままだっ
た。その中央にヨナは実に細かい文字で、やっと判読できる一語を書き
残していた。が、その言葉は、solitaire(孤独)と読んだらいいのか、
solidaire(連帯)と読んだらいいのか、わからなかった。