title:アナーキスト ver.0.9.8jj
木村応水 作
1995


 『無知の涙』 永山則夫
 未だ文章の幼稚なのは痛感しているが、一年以前の私と比較した場合
差異があるから多少嬉しいと思うわけだ。思うのは犯罪者になってから
はすべて手後れということだ。しかし現存在というものは苦味のある状
態であるが、満足している次第である。ふふ・・・・「いいじゃないの
今が幸せならば」ということだ。これから先はどっちにころんでも大差
のない人生であろうと思うが、今の、学問をするということに燃えてい
る私を粗末なものにしてはならないと思慮する。他人が私の過去をどう
讒訴しようが一向に関知しない。現在の私を視てくれというものだ。


 『不思議な物語』 ブルワ=リットン
 ヴァン・ヘルモントには突飛もない奇癖が多分に見られますが、中世
の神秘学研究者の中では、鍛えられた現代の理論家に、この上もなく示
唆に富んだ見解を提供してくれる知性の持主なのです。彼は、彼がファ
ンタジーと呼び、私たちが一般に想像力と呼んでいる能力は、感覚とは
独立した諸概念、それぞれが想像力によって形作られた形態に包まれ、
重要な働きをする存在となる諸概念、を、それ自身の力で創造する力を
備えていると推測しています。


 『哲学辞典』 ヴォルテール
 世に散在する少数の思慮ある人々に最も役立った文人とは、孤独の識
者であり、自己の書斎に閉じこもった真実の学者であり、彼らは大学の
長椅子に腰かけて議論をしたり、アカデミーで生半可なことを述べたり
はしなかった。だが、彼らのほとんどが迫害された。ふみかためられた
道を歩く者は、新しい道を教える者にたえず石を投げつける。みじめな
人類はこのように生まれついているのだ。


 『ゴッホの手紙』 ヴァン・ゴッホ
 不幸の大きな原因は芸術家たちの間に団結心が欠けていて、互いに非
難し合ったり迫害して、認め合おうとはせず、なんとか出世させないよ
うにするからだ。


 『ダダ』 ハンス・リヒター
 「批評家とは、特殊な種類の人間だ。批評家になるには、批評家に生
まれつかねばならない。生まれながらの批評家はまったく異常な羊の感
覚で、重要でないものをとりだす。彼は批評されるべき芸術作品や芸術
家の欠点をみるのではなく、その芸術作品によって明らかにされた自分
自身の欠点をみる。生まれながらの羊の感覚によって、批評家はたしか
に芸術作品を通して自分自身の欠点を認識するのだ。これこそすべての
批評家の悲劇である。彼らは芸術のかわりに欠点をみる。芸術をみると
は批評家にとって、芸術作品の欠点に赤線をひき、その下に成績点を書
きこむことだ。批評家は当然人好きのする古参教員に似ている。もっと
も、批評家はどんな試験も受ける必要がない。まさに生まれつき批評家
になるのだから。批評家は人類に与えられた天の贈りものである。彼は
古参の女教師に保育され、牧羊の至福のために芸術の欠点によって生計
をたてる。のこぎりでわが身をひけば雨が降る。それからときおり批評
家はもう一杯の赤インキを飲む。どんな批評家も雨傘を持っており、雨
傘のなかでいわば結婚したのだ。というのは、のこぎりでわが身をひけ
ば牧羊の至福のために雨をもたらすからだ。しかし、上述の女教師は、
実在する秘密の古参教員たちの胆汁と、愚鈍になった羊たちの胃袋から
精製された、濃いシロップ状体液である。上述の羊たちは批評家と同様、
いかなる試験も受けておく必要はない。批評家は、それをさかさまにね
じあげるために雨傘をもちいる。批評家は美術展で雨傘をわたす必要は
ない、雨傘はしかし試験を受けなければならぬ。穴の多い雨傘だけが美
術批評用に許可されるのだ。穴が多ければ多いほど雨が多く、雨が多け
れば多いほどのこぎりが多く、のこぎりが多ければ多いほど批評が多い。
羊に話をもどそう。批評家とは、特殊な種類の人間である。批評家にな
るには批評家に生まれつかねばならない。批評家は羊として生まれ、羊
として古参女教師に保育され、羊として美術作品に酔っ払う。芸術家と
批評家との差異はつぎの点にある、芸術家は創造するが、批評家は羊化
する。」


 『構造人類学』 レヴィ=ストロース
 それゆえ、人類学者が現地調査の経験をもつ必要があるというのは、
この学問分野の本性そのものにもかかわり、その対象の特性にも関連す
るような、きわめて深い理由のためである、ということがわかるのであ
る。人類学者にとって、現地調査の経験は、彼の職務の目的でもなけれ
ば、彼の教養の仕上げでもなく、一つの技術の習得でもない。その経験
は、彼の教育の決定的な一契機をなしているのであり、それ以前には、
彼は、決して一つの全体を形づくることのない不連続な知識をもつこと
ができるにすぎないのだが、その契機のあとにはじめて、彼らの知識は、
有機的な一つの総体の形に「凝集して」くるのであり、以前には欠けて
いた一つの意味を、突如おびるようになるのである。このような状況は、
精神分析の分野で優勢になりつつある状況との、著しい類似を示してい
る。今日世界に広くとりいれられている原則では、精神分析を職業とし
ておこなうためには、特別の、他のもので代替できない経験、つまり精
神分析そのものの経験が、要求されるのである。すべての規則が、精神
分析者になろうとする者に、彼自身分析された経験をもつことを義務づ
けているのも、そのためである。人類学者にとっては、現地での作業が、
このかけがえのない経験に等しい価値をもっている。精神分析の場合と
同様、この経験は成功することも失敗することもあるだろう。しかしど
んな試験や選抜をおこなってみても、成否をはっきり見通す手だては得
られないのである。ただ、この職務にたずさわっている、経験を積んだ
人たち(彼らの作品が、彼ら自身成功裡にこの岬を越えたかどうかのあ
かしになるのだが)だけが、人類学的職務の志望者が、現地で、彼自身
を真に新しい人間につくりかえるところの、あの内面の革命を成就する
かどうか、するとすればそれはいつか、を見きわめることができるので
ある。


 『悲しき熱帯』 レヴィ=ストロース
 文学や自然科学の学生にとっておきまりのはけ口、教職、研究、また
は何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これら
の学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼ら
はむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になって
も学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、
彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。
ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいは
もっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の
保存と伝達に没頭するのである。


 『エクリ』 ジャック・ラカン
 この疑問に答えるためには、まず、こういうことを言っておかなくて
はなりません。世界中で現にこの機関(フロイト学会)の後援を受けて
いるどの《学校》も、まだ学年段階をまとめる努力さえしたことはあり
ませんが、フロイトはこれについて、機会あるごとに微に入り細にわた
って、その意図と拡張を、例えば彼の時代にみられたような公式の医学
教育によって代えられるものは、たとえ政治的なものであってもいっさ
いこれを排除するのだとして、はっきり限定しております。
 学校におけるこのような教育はたんなる職業教育で、そうであるかぎ
り教科課程のなかで教科案について教えることはありませんし、また、
ある歯科医師学校の間違いなく賞賛すべき教科課程にも優るような教科
目標をそこで教えることもありません(歯科医師学校に言及したのはた
んに容認されるのみならず、関係者たちの口から言われたことでもあり
ます)。ということはここで問題となる科目ということについては、資
格のある看護人や社会事業の婦人家庭訪問員の養成以上に出るものでは
ありませんし、こうした養成は、幸いなことにヨーロッパでは通常比較
的に程度の高いものですが、そこでこの養成を受け持つ人々は、当の科
目をいつも異なった出産地から受け継ぐわけです。
 そこで、このようなことは問題になりません。学校は機関とは別なも
ので、機関については専横的な含みを持たせるためにその歴史を作らな
くてはならないでしょうし、それによって特別の拘束が維持されます。
そして、フロイトもその繁栄をこの拘束のもとにおきましたが、それは、
この場合精神的なものと呼ぶことはむずかしいでしょう。


 『アートはまだ始まったばかりだ』 ヤン・フート
 私の経験では、真のアーティストは偉大なアカデミズムなど作りはし
ないのだ。真のアーティストの大半は、学校や美術学校のドロップアウ
ト組だ。真のアーティストは自分自身を教育する能力がある。勉強を終
えた時には、もはや本来の自分自身ではないのだ。
 アーティストは美術学校なしでやっていける。だが、頭に入れてもら
いたいが、これは百パーセントの真実ではない。というのは、学校は標
準的に言って、アーティストの反抗心を高める傾向にある。これも大い
に意味があるからだ。もし学校がなかったら、人は勉強の為ではなく、
自己教育をするために創造されたのだと、他のどんな手段で知ることが
できるだろう?


 『脱皮』 フェンテス
 それからマルキオンについてだが、ポリュカリポスは、彼の顔を見る
なり、こう言った。「わしはおまえのことを知っている、サタンの最初
の落とし子だ」そうというのも、神は異邦人であり、完全な他人である
ことを最初に知り、大胆にもそう発言したのが、ほかならぬマルキオン
だったからだ。世界が愛と正義との実現不能な緊張関係であり、究極的
に無の証明《死体と墓穴》に終わるしかないとすれば、世界の創造主は、
絶対的な愛と正義である神とは、無関係である、と。世界に恐怖をもた
らした罪を造物主に負わせることはできるが、異邦人、他人である神に
は不可能であり、この神に責任はないのだ。だからドラゴーナ、神とこ
とばを交わすことができるのは、神と同じ、異端者、背教者、アウトサ
イダー、そして異邦人ということになるだろう。