title:ミニマル文学 ver.1.0j
木村応水 作
1991

スタニスラフスキ氏(ポーランド・ウッジ美術館前副館長)
選考作品


 『ヘリオーポリス』 E.ユンガー
 ルーチウスは玄関に足を踏み入れた。彼は入口を知っていた。パルシ
ー教の標章の数々が入口を守っていた。開けると銅製の管が演奏を始め
るのだった。これが仕事場にいる親方に、客間、といってもうすぼんや
りと照明された小部屋だったが、に客が入ってきたことを知らせるよう
になっていた。絹の、擦り切れたカヴァーのかかったソファが何脚かテ
ーブルの周りに並べられていた。テーブルの上には燭台がつり下げられ
ていた。燭台の微光が、年経て反り返った幾つかの鏡の緑がかった底と、
ペーリが本を保管しているガラス製ショーケースとに映っていた。本は
図書館とは違って背ではなく、表紙を見せていた。

 「おやまあルーチウス、性急だね。でもおまえに答えてあげたい。殺
人、戦争、虐殺行為は計画の外にあるわけではない。計画の外にある物
など何ひとつないからだ。けれでも、それらのことは掟の外にあるのだ。
その限りでは歴史は実際違反の連鎖であって、これは慈悲の行為によっ
てしか保たれ得ない。これが旧約聖書のテーマだ。また国家においても
自然の必然性が支配しているが、しかし認識と共に罪がおかれる。それ
ゆえ、ひとつの行為が同時に自然的に必然であり、かつ掟の前に有罪だ
ということがあり得る。我々の至高の本質を破滅させかねないこの齟齬
・衝突をカバーするために、犠牲の宝が存在する。これが新約聖書のテ
ーマだ。
犠牲は後からなされることもある。その場合にはそれは贖罪と改悛とし
てあらわれる。犠牲はまた行為に先行することもある。我々はその場合
我々の自然請求権の一部を神の栄誉のために譲渡する。それは千倍の利
息を、永遠の利息をもたらす部分だ。その部分はわずかかもしれないが、
我々の自然的発生全体を包含し得るのだ。そして素晴しいのは、犠牲が
代表として効果を及ぼすことだ。それでわれわれ賤しい穏者もまた少し
は世界の幸福のために貢献できるのだ」


 『失われた足跡』 カルパンティエール
 ナントの勅令の廃止によってサボイから追放されたユグノー教徒であ
った祖先は、ホルバッハ男爵(1723〜89 フランス百科全書派の
パトロンで哲学者でもあった。)の友人であったわたしの高祖父の時に
〈百科全書派〉となり、それ以来、たしかに家に聖書を備えてはいるが、
それは何も書かれていることを信じているからではなく、そこに流れる
ある種の詩情を見捨てていないからであった。


 『海に帰る鳥』 バラカート
「何を読んでる?」
「旧約聖書」
「きみが旧約に興味を持つような人だとは思わなかった」
「あなたがそう思うのはもっともだけど、私、歴史は繰り返すと信じて
いる人間の一人よ。だから、昨日、早く帰ってきたとき、今の状況を理
解するのになにか助けになるかもと、聖書を読もうって、ふと思い立っ
たの」
「それで、何か見つけた?」
「ええ」


 『アルバート街の子供たち』 アナトーリー・ルバイコフ
 ミハイル・ユーリエヴィチは、なけなしの給料をはたいて本を手に入
れていて、すべての面で切り詰めた生活をし、肘も返し衿もてかてかに
光った同じ背広で一年中過ごしていた。「人間の発明したもののなかで」
と、ミハイル・ユーリエヴィチはほとんどぼろぼろになったページを薄
い透明な紙で裏打ちしながら言った。「いちばん偉大な物は、本で、地
上のありとあらゆる人びとのうちでいちばん驚嘆すべき人は、作家とい
う存在ですよ。われわれがニコライ一世やベンケンドルフ伯爵を知って
いるのは、ひとえに彼らがアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキ
ンと同時代を生きていたがためです。聖書がなかったら、われわれに人
類の歴史を知ることができたでしょうか? バルザック、スタンダール、
モーパッサンなしにフランスを理解できるでしょうか? 言葉というも
のは、唯一永遠に生きるものなのですよ」
「ではピラミッドや寺院は」とワーリャは反論した。
「建築記念物やルネッサンスの優れた絵画はどうなのです?」
「ミケランジェロやラファエロの作品を鑑賞するにはローマやローレン
スやドレスデンに出かけたり、ルーブル美術館やわが国のエルミタージュ
美術館に行かなければならない。でも、ダンテやゲーテのところへは行
く必要はなくて、彼等はいつもわたしと一緒にいてくれます」と、ミハ
イル・ユーリエヴィチは本箱や書棚を見回した。


 『旧約聖書 コレヘトへの言葉』
 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した
者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」
と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったこ
とは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということ
だ。これも風を追うようなことだと悟った。
知恵が深まれば悩みのふかまり
知識が増せば痛みもます。

 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。
書物はいくら記してもきりがない。
学びすぎれば体が疲れる。
すべてに耳を傾けて得た結論、
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
これこそ、人間のすべて。
神は、善をも悪をも
一切の業(わざ)を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。


 『新約聖書 使徒言行録』
 「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったの
だ。」パウロは言った。「フェストス閣下、わたしは頭がおかしいわけ
ではありません。真実を理にかなったことを話しているのです。」


 『新約聖書 ヨハネの黙示録』
 この予言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを
守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。


 『若きウエテルの悩み』 ゲーテ
 ぼくら教養ある人間は、実は教養によってそこなわれた人間なんだ。


 『法華経』
 求法者は王者に親しみ近づいてはならないし、王子にも王の大臣・従
者らにも、親しみ近づいてはならない。また異教徒や苦行者・托鉢者・
アージーヴァカ教徒・ニルグランタ教徒たち、詩書や論書に専念する者
たちにも、親しみ近づいてはならない。


 『資本論』 マルクス
 キリスト教的植民制度について、キリスト教の研究を専門とする人、
W.ハイウットは言う。「いわゆるキリスト教人種が世界の到るところ
で、またその征服しえたすべての民族にたいして演じた蛮行と暴力とは、
世界史上のいかなる時代にもその比を見ず、いかに粗野で、蒙昧、無情
で、無恥な人種によってもその比を見ない」


 『小論理学』 ヘーゲル
 われわれは、人が行うところのものがすなわちかれであると言わなけ
ればならない。そして、内はすぐれているのだという意識によって自分
を慰めているような偽りの自負にたいしては、「樹は果によりて知らる
るなり」というあの聖書の言葉をもって報いるべきである。


 『この人を見よ』 ニーチェ
 キリスト教は怨恨(ルサンチマン)の精神(ガイスト)から生まれた
ものであって、一般によって信じられているように「精霊(ガイスト)」
から生まれたものではない。


 『未成年』 ドストエフスキー
 「人々をそのあるがままの姿で愛するということは、できないことだ
よ。しかし、しなければならないことだ。だから、自分の気持ちを殺し
て、鼻をつまみ、目をつぶって(これが特に必要なのだが)、人々に善
行をしてやることだ。人々から悪いことをされても、できるだけ腹をた
てずに、『彼も人間なのだ』ということを思い出して、こらえることだ
よ。もし中程度よりもごくわずかでも聡明な頭脳を天から与えられてい
れば、きみは人々にきびしい態度をとるように使命づけられていること
は、言うまでもないことだ。だいたい普通の人間というものは生来低俗
なもので、恐ろしいから愛するという傾きがある。このような愛に屈し
てはならない、このような愛を軽蔑することをやめてはならない。コー
ランのどこかでアラーが預言者に『従順ならざる者たち』をねずみくら
いに考えて、善をほどこしてやり、さりげなく通りすぎるがよい、と教
えている。これはすこし傲慢だが、しかし正しいことだ。彼らがよいこ
とをしたときでも、軽蔑できるようになることだ、というのはそのよう
なときこそ彼らはもっとも醜さも出すからだ。いや、アルカージイ、こ
れはわしが自分から推して言ったのだよ! ほんのちょっぴりでもばか
でない者は、自分をさげすまずには生きていられないものだよ、正直で
あろうとなかろうと、それは同じことだ。隣人を愛して、しかも軽蔑し
ない、これはできないことだよ。わたしに言わせれば、人間というもの
は隣人を愛するということが生理的にできないように創られているんだ
よ。ここにはそもそものはじめから言葉に何かのまちがいがあるのだ。
だから『人間に対する愛』という言葉は、きみ自身が自分の心の中につ
くり上げた人類だけに対する愛(言葉をかえて言えば、自分自身をつく
り上げたということになるから、自分自身に対する愛ということになる
のだが)、したがって決して実際に存在することのない人類に対する愛
と解釈すべきだよ。」


 『コーラン』
 (アッラー)こそはお前にこの聖典を下し給う御方、その中にはこの
聖典全体の母体(基礎的、本質的部分の意)とも言うべき、文句のはっ
きりしたところと、それから別に曖昧なところとがあって、心の中に邪
曲を宿す者どもはえてしてこの文義曖昧な方につきたがり、それをもと
にして異端騒動を巻き起そうとはかったり、また自分勝手な解釈をここ
ろみようとする。だが本当の解釈はアッラーだけが御存知。しっかりと
ゆるぎない知識を持つ人々は、「私どもはそれ(コーラン)を信じてお
りまする。すべては神様のおつかわし下さいましたもの」という。ただ
心ある人々のみ(かくのごとく)正しく反省する。

 言ってやるがよい、「アッラーと呼んで祈ろうが、慈悲ふかき(御神)
と呼んで祈ろうが(なんの違いもありはしない。これは、マホメットが
アッラーをいろいろな名前で呼んでいるのを非難した異教徒への応答で
ある)、どちらの名で呼んだところで、要するに最高の美称はすべて
(アッラー)のもの」と。


 『聖書の常識』 山本七平
 いろいろと異論はあるが、「五書(トーラー)」が公布され確立した
のは、前述のようにだいたい紀元前四四四年と考えられている。
 だが「正典」として確立されたとは、五書がそのとき書かれたという
ことでなく、五書はJ.E.D.Pと呼ばれる非常に古い四つの資料か
ら徐々に構成されて、最終的に正典化されたことは、今日ではすでに定
説である。もっともこれをさらにL.Nの二資料に分け、J1.J2と
区別する場合もあるが、普通にはJ.E.D.Pの四資料と考えてよい
であろう。
 そのうち、JとEの二資料は、神名の違いからきている。Jはヤハウ
エ(=エホバ)、Eはエロヒムである。
 昔の文語訳聖書を見ると、神について、ただ「神」という場合と「エ
ホバ神」にあたる。
 では新しい口語訳はなぜ「エホバ」という言葉をやめたのであろうか。
実をいうと、エホバとは誤読なのである。なぜ誤読が生じたかというと、
それは次のような事情による。
 ヘブライ語には、母音表記がない。だから、神の名を欧文表記に直す
とYHWHとなるだけで、本当のところは、どう発音していいかわから
ない。これを「神聖四文字」といい、学者によっては「YHWH」とし
か書かない人もいる。というのは言語学者たちが推理した「ヤハウエ」
にしても、はたして正しい発音かどうか不明だからである。


 『怒りのぶどう』 スタインベック
 トムはたき火の光の中に座って、考えをまとめようとして目を細めた。
そして最後に、ゆっくりと、慎重に最初の白いページへ、大きな、はっ
きりした字を書き付けた。「ここにいるのはウイリアム・ジェームズ・
ジョードといって卒中でなくなった老人である。彼の家族が老人を埋め
た。なぜなら彼らは葬式に払う金を持たなかったからである。誰も彼を
殺したのではない。ただ卒中で彼は死んだのである」彼は手をとめた。
「おっ母、聞いてくんな」彼はゆっくりと母親に読んで聞かせた。
「うん、とてもりっぱに聞こえるだよ」と母親は言った。「どうだね、
聖書から何か言葉を抜けねえだかね。そうすれば言葉が信心深くなるだ
が。聖書をあけて、そのなかから何か抜きだして言ってみてごらんよ」
「短くなくちゃ困るだよ」トムが言った。「もうあまり書くところが残
ってねえだから」セリーが言った。「神よ彼の魂にめぐみをたれたまえ、
こういうのはどうだね?」「だめだな」トムは言った。「それだとなん
だかじいさまが首でもくくられたみてえな感じがするだて。何かほかの
を写そうや」彼は聖書のページをくって読み、唇をぶつぶつ動かし、声
に出さずに言葉を口にした。「やあ、ここに短くていいのがある」彼は
言った。「わが主よ、請う、斯(か)くしたもうなかれ」
「まるで何の意味もありゃしねえだ」と母親が言った。「書くからには、
何か意味がなくちゃね」
セリーが言った。「詩篇を開いてごらんよ。もっと先よ。詩篇からだと、
いつも何かいい文句がとれるだから」
トムはページをくり、詩篇をながめた。「ここに、こんなのがあるだ」
と彼は言った。「こいつはなかなかいいぞ。それに、とても宗教的だ。
『その咎(とが)を許され、その罪をおおわれしものは福(さいわい)
なり』こいつはどうだな?」
「それはとってもいいだ」母親が言った。「それを書きなよ」


 『黒死館殺人事件』 小栗虫太郎
 「ところで君は、『ソロモンの雅歌』の最終の句を知っているかね。
吾(わ)が愛するものよ、請う急ぎ走れ。香ばしき山々の上にかかりて、
鹿のごとく、小鹿のごとくあれ、と。あの神に対する憧憬を切々たる恋
情中に含めている、まさに世界最大の恋愛文章だが、それには、愛する
者の心を、虹になぞらえて詠っているのだ。」