ネオ・アンフィオニイ作品
title:毛沢東 ver.1.0j
木村応水 作
1997


 『ワイルド・スワン』 ユン・チャン
 運転手つきの車を待たせておくのに使われていた駐車場にも、巨大な
土法炉が出現した。夜になると炉の火炎が暗い空を赤く照らし、人々の
動きまわる音が三百メートル離れた私の部屋まで聞こえた。わが家にあ
った中華鍋も、その他の調理器具も、鉄でできたものはことごとく炉に
投げこまれた。鍋や釜はどうせ使わなかったから、なくなっても生活に
は一向に差しつかえなかった。自宅で料理を作ることは禁止され、食事
は食堂でとる規則になっていたのだ。炉は、鉄くづをつぎからつぎへと
飲みこんで、とかしていった。柔らかくて寝心地のよかっ両親のベッド
のスプリングも、土法炉の融鉄となった。街の歩道のガードレールも、
炉に投げこまれた。とにかく鉄でできているものは、なんでもかんでも
炉に投げこんでとかした。何か月ものあいだ、私たち子供は、ろくに父
母の顔も見なかった。親たちは職場の土法炉の温度が下がらないように
ずっとついていなければならなかったので、一晩じゅう帰ってこない日
も多かった。
 この騒ぎは、毛沢東が中国を第一級の近代国家に仕立てるという夢想
にとりつかれて走り出したことから始まった。毛は、「鉄がすべてに優
先する」と言って、1957年に年間535万トンだった鉄鋼生産を翌
58年には1070万トンに倍増するよう指示した。ただし、専門技術
を持った労働者による本来の鉄鋼業を発展させるかわりに、毛沢東は全
人民を動員することにした。「単位」(職場)ごとにノルマが課され、
人々はノルマを達成するためふだんの仕事を放り出して何か月も鉄くず
さがしに奔走した。経済発展の指標が何トンの鉄を生産できるかという
単純な目標に集約され、全人民がこの作業にかかりきりになった。政府
の推計でも、国の食料生産を支えていた一億近い農民が鉄の生産にかり
出された。山林の樹木を伐採して燃料に使ったので、あちこちで茶色の
山肌が露出するようになった。しかし、全人民を動員した狂騒の成果は、
何の役にもたたぬ牛のクソ程度にしかならなかった。
 この馬鹿げた結果は、毛沢東の経済音痴に加えて、現実をまるで無視
して夢想に溺れる彼の性向が招いたものだ。詩人なら夢を見るのもよい
が、絶対的な権力を持った政治家となればべつだ。毛沢東の途方もない
発想の根底には、人の命に対する軽視があった。大躍進運動を始める少
し前、毛沢東はフィンランドの大使に向かって、「アメリカがもっと強
力な原子爆弾を作って中国の国土に大穴をあけたところで、あるいは地
球を丸ごと吹き飛ばしたところで、太陽系にはかなりの影響が出るかも
しれないが、それでも宇宙全体から見れば取るに足らぬことでしかない」
と語っている。

 毛沢東は、途方もなくバラ色の経済目標をぶち上げた。中国の工業生
産高は今後15年でアメリカやイギリスに追いつき追いこせる、と言っ
たのである。アメリカやイギリスは、資本主義世界を代表する国だ。そ
れに追いつき追いこすことは、共産主義の敵に勝利することだ。これが
人民のプライドをくすぐり、やる気を猛烈にあおった。アメリカをはじ
めとする西側の主要先進国から国家としての承認を拒まれた外交的屈辱
を晴らし、世界に実力のほども示したいという切実な思いが、奇跡のよ
うな目標に向かって人民を走らせたのである。中国の人々は、エネルギー
のはけ口を求めていた。そこへ毛沢東の夢のような目標が示された。猪
突猛進が慎重論をなぎ倒し、無知が理性を圧倒した。
 モスクワからもどってまもない1958年初頭、毛沢東は約一ヵ月に
わたってチョンツーに滞在した。当時の毛は、中国にできないことは何
ひとつない、ソ連に代わって社会主義世界の盟主になることも不可能で
はない、という考えに浮かされていた。「大躍進」の構想が固まったの
は、この時期であった。市当局は毛沢東のチョンツー訪問を記念して大
パレードを催したが、観衆はパレードの中に毛主席がいるとは思いもし
なかった。毛は、パレードの人波にまぎれて歩いていたのである。この
パレードのスローガンは、「米がなくても飯は炊ける」だった。中国に
昔からある「米がなければ飯は炊けぬ」という言い回しを逆にもじった
のである。誇張された表現がいつのまにか現実のノルマになり、不可能
な夢がいつのまにか現実の目標になっていった。

 組織化のもうひとつの目玉である公共食堂は、当時の毛が何をおいて
も実現したいと考えていたことだった。毛沢東は、いかにも彼らしい軽
い調子で、共産主義とはすなわち「タダでメシが食える公共食堂である」
と言ってのけた。公共食堂を作ること自体が食料の増産につながるわけ
ではないという点には、まるで無頓着であった。1958年、政府は農
民が自宅で食事することを事実上禁止した。農民は全員、公共食堂へ行
くことになった。中華鍋のような調理道具の所有も禁止された。面倒を
見てくれるのだ。農民は一日の農作業が終わると公共食堂へ行き、食べ
たいだけ料理を腹に詰めこんだ。豊かな地方で豊作の年でも、農民が食
べたいだけ食べられたことはなかった。農村部の食料備蓄は、またたく
間に底をついた。農作業にも出かけるには出かけたが、作業の能率など
だれも気にしなくなった。収穫はすべて国のものになるのだから、作柄
が良かろうと悪かろうと自分たちの暮らし向きには関係ない、と思った
のである。「中国は共産主義社会を達成しつつある」という毛沢東のこ
とばを、農民は、「これからは働きに関係なく分け前がもらえるように
なる」ことだと理解した。これでは、働く意欲がわくはずもない。農民
は、畑で昼寝して一日をすごした。

 1961年初めまでに餓死者は数千万に達し、毛沢東はついに狂気の
経済政策を放棄せざるをえなくなった。毛は不承不承に「実務派」のト
オ・ショウヘイ党総書記に政治運営をゆだね、自己批判を書いた。だが
毛沢東の文章は自己憐びんにあふれ、自分は全国の無能な党員の罪とい
う重い十字架を背負ってやっているのだ、といった調子で終始一貫して
いた。さらに毛沢東は、今回の破滅的経験から教訓を引き出すように、
と無能な党員に寛大なる指示を垂れた。ただし、いかなる教訓を引き出
すかは、下々の党員のあずかり知らぬところであった。結局、毛沢東か
ら「われわれは人民から遠ざかり、一般人民の感情と合致しない決断を
下してしまった」というご託宣があり、毛沢東以下最下位の党員までは
てしなく自己批判がくりかえされただけで、責任の所在はうやむやにさ
れ、だれひとり追及しようともしなかった。