『トランスフォーメーション第二宣言』のソースは、
『シュルレアリスム第二宣言』
アンドレ・ブルトン 著
江原順 訳
白水社

p147-
 シュルレアリスムは、それを標榜するものの個々の私的な活動はとも
かくとして、知的道徳的観点からみて究極的には最も広般かつ深刻な種
類の意識の危機を挑発すること以外になにも求めてこなかったというこ
と、その結果を得たか得なかったかだけが、歴史的な成功か失敗かを左
右しうるということが認められるようになるだろう。
 知的な観点からみて、本当のところは人間に自分の手段の貧しさを思
い知らせるだけのことが、偏在する束縛から有効な範囲まで逃げてみろ
と人間を挑発するようなことしかできはしないのに偽善的にも、人間の
側の異様で苛烈な不安を予防するためとされてきた老朽化したさまざま
の二律背反のいんちきな性格を、あらゆる方法で試練にかけ、どんな代
価を払ってでも認めさせることが肝要だったのであり、今も肝要なので
ある。死という案山子、彼岸の音楽喫茶、こよなく美しい理性の睡眠中
の難破、未来という重苦しい幕、バベルの塔、無定見な鏡、脳しょうを
擦り込まれた金銭の乗り超えがたい壁、これら人間破局の余りにも、迫
真的なイメージは、おそらくはイメージにすぎまい。あらゆることから
考えて、生と死、現実的なものと想像、過去と未来、伝達可能と不可能、
高と低が相反的なものとは認められなくなる精神の一点が存在すると信
じられる。この点の決定という希望以外の動機をシュルレアリスムに求
めても無駄ということになる。これで、シュルレアリスムに破壊的か建
設的かなど、どちらか一方だけの意味を押しつけることが如何にばかげ
ているかがじゅうぶんにわかると思う。まして、問題の一点は、建設と
破壊が互いに切り結びあいをやめる点なのだ。だから、シュルレアリス
ムが、その傍で、芸術、反芸術、哲学、反哲学を口実につくりだされる
もの、一言にしていえば、もはや氷の魂でも火の魂でもないような、目
をくらます内部の発光体のうちに存在を滅却することを目的としない一
切のものを重要視することに関心をもたないことも自明なのである。世
間で占める地位をいささかでも気にするような連中が、シュルレアリス
ムの実験から一体なにを期待できるというのだろう。危険だが至高とわ
れわれの考える認識をもはやわれわれのためにだけしか試みえないこの
精神的な場所では、来るもの去るものの足音にいささかの意味でも与え
ることなど論外である。こういう足音は本質的にシュルレアリスムが聞
く耳をもたない地帯で起こるからである。シュルレアリスムがあれこれ
の人間の気分次第ということになっては困るだろう。シュルレアリスム
は独自な方法でますます過酷化する隷属状態から思考を引き剥がし、そ
れを全き理解力の道につれ戻し、原初の純粋さに戻すことができると宣
言しているのだから、シュルレアリスムはなにをしたか、約束を守るた
めにまだなにをなすべきかということだけを基準にして、それだけで、
シュルレアリスムを判断すればいいのである。
 けれども、こういう決算の検討にたち入るまえに、私がこの生活を空
とか時計の音、寒さ、不安といったような逸話で充電しなおす、つまり、
卑俗ないい方で生活を語りなおしはじめるとたちまち、おそらくは偶然
にではなく、シュルレアリスムが生活、「現代生活」に根をおくことに
なるのだから、シュルレアリスムがどのような道徳的力に正確に依拠し
たのかを知ることが重要になる。禁欲主義の最終段階を超えてしまった
のではない限り、こういう(逸話的な)ことを考え、壊れ梯子の横木の
一本にしがみつくというようなことから誰も逃れられはしないのである。
それどころか、美醜、真贋、善美などという不条理な区別を克服したい
という願望が生まれ維持されるのは、意味の空洞化した(逸話的事物の)
表現のヘドのでるような沸騰そのものからなのである。ついに居住可能
な世界に向かう多少とも堅固な精神の飛しょうは、この選ばれた思想が
ぶつかる抵抗の度合にかかっているのだから、シュルレアリスムは自ら、
絶対の反逆、完全不服従、原則としてのサボタージュのドグマになるこ
とを恐れてはこなかった、そして、現在もなお暴力以外のなにものにも
期待していないと考えられるのである。最も簡単なシュルレアリスム行
為は、拳銃を握りしめて街頭におり、できるだけでたらめに群衆に向け
て発砲することである。このようにして堕落と白痴化の現に機能してい
るくだらない制度と少なくとも一度くらいは絶縁したいと願ったことの
ないものは、腹を砲身にさらして群衆のなかで一番狙われやすい場所を
占めているわけである。

 われわれは、シュルレアリスムを通じて、躊躇なく、「ある」sont事
物だけの可能性という理念を捨てるのだから、われわれが示したどるの
を助けうる「ある」est道を通じて、「そこになかった」quinetait pas la
と主張されてきたものに到達するのだと宣言するのだから、西欧的知性
の低俗性に烙印を捺すのにじゅうぶんな単語をみつけていないのだから、
論理にたいして反乱を起こすことを恐れてはいないのだから、われわれ
は、夢のなかで達成される行為が覚醒時に達成される行為より意味が少
ないなどと判断してはいないのだから、不吉な古い道化芝居、脱線続き
の汽車、狂った脈拍、退屈させ、退屈する愚行のやり切れない堆積とも
いうべき時間と縁を切るわけにはいかないだろうと思いさだめているわ
けではないのだから、そういうわれわれに、どうしてひとは、社会の維
持装置に見境もなく少しは優しく振る舞うとよかったのにとか、寛容に
すればよかったのになどと望むのであろうか。これこそわれわれの全く
受け入れがたい唯一の戯言である。一切はこれからである。家族・祖国
・宗教という理念を破産させるためなら一切の手段が使われていいはず
である。この点についてのシュルレアリスムの立場はかなりよく知られ
ているが、それだけでは駄目であって、さらに、この立場は妥協を含ま
ないということを知ってもらわなければならないのである。この立場を
守ろうと努めるものは、この否定をあくまでも進め、他の一切の価値の
基準など意に介しないのである。フランス国旗のまえで野蛮人のように
ふざけたい、ひとりひとりの神父の面にヘドをはきかけたい、「第一の
諸義務」などという連中に性的シニスムの長距離砲をぶっ放してやりた
いというような、若者たちから離れることのない欲求を「若気の」過ち
などといって寛容に許してやろうと芝居気たっぷりに待ちかまえている
ブルジョワどもの慨嘆を、若者たちはたっぷり楽しませてもらうつもり
でいる。われわれはあらゆる形で、詩的無関心、芸術の娯楽化、博識の
ための探究、純粋思弁と戦う。われわれは、大小を問わず精神の節約家
どもと共通のものをもとうと思わない。起こりうる追放、脱落、裏切り
も、こういうくだらぬ事と縁を切る妨げにはならないだろう。ある日わ
れわれを彼らなしに済ます必要に追い込んだ連中が自分だけになり、自
分ひとりになってしまうとただちに途方に暮れ、秩序の擁護者、あらゆ
る頭脳の平均化の偉大な支持者たちの寵愛を取り戻そうとなんとも哀れ
な方便を使う仕儀になっているのは、はなはだ興味深い。このことは、
シュルレアリスム活動参加にあくまで誠実であることは、無私、危険の
蔑視、妥協の拒否を前提とし、そのことは、ごく少数の人間だけが長時
間をかけてそうできることを明らかにするものだということである。シ
ュルレアリスムで自分たちの表現行為の成功と真実への願望を測定しよ
うと最初に企画したもの全部のうちひとりも残らなくなっても、シュル
レアリスムはきっと生き残るだろう。ともあれ、摘み捨てるには手遅れ
のその種子は、一切に勝利するにちがいない恐怖その他の異なった狂気
の野草とともに、人間の野で無限の彼方に向けて芽をださないわけには
いかなくなってきているのである。

 シュルレアリスムは今までにもましてこの一貫性なしには済まさない
つもりであり、誰彼が、生活の必要という曖昧な忌むべき口実で許され
ると思っているちゃちな裏切りの合間に、シュルレアリスムに投げ込む
ものでは満足しないつもりである。われわれはこういう「タレント」の
布施は必要としなくて、完全な同意か拒絶を引き起こす性質のものであ
るとわれわれは考える。哀れむべき安逸、われわれに残っている名声ら
しきもの、疑惑、「脆く」美しいガラス細工、無力な急進思想、義務な
るものの愚考を片っ端からそこに投げ込もうと提案しているるつぼの底
深くに、もはや弱まることのない光を認めるというただひとつの喜びに
すべてを賭けようと願うか否かである。
 シュルレアリスムの作業は精神の無菌状態で行われない限り、うまく
進められる見込みはないとわれわれはいっているのである。このことを
聞き入れるものはまだごく少数である。けれどもこういう条件がなけれ
ば、かくも当然に存在しうるはずのものが「存在せず」、いくつかの事
象が「存在する」ことを悲痛に考えすぎるということのなかにある精神
のあの癌をくいとめることは不可能になる。われわれは、このふたつは
究極のところで混合するか、奇妙な形で交錯しあうはずだと主張してき
たのである。そこでやめておくというのではなくて、絶望的でもやはり
この究極に向かっていくほかないということが問題なのである。
 人間はいろいろ奇怪な歴史の挫折に不当に怖気づくことがあるだろう。
だがなお自分の自由を信ずることは自由である。漂いゆく古い雲、ぶつ
かってくる盲目的なおのが力にもかかわらず、人間は自分の主人である。
掠めとられる束の間の美と、手に入れうる、盗みとりうる長期の美の感
覚をひとはもたないのであろうか。詩人がみつけたといい、人間もまた
求める愛の鍵を人間はもっている。死ぬとか危険に生きるなどという一
時的な感情を超越するのは本人次第である。あらゆる禁例を無視して万
物と万象の愚劣さに反対する理念たる復讐の武器をとれ、そして、ある
日敗者たる(世が世である限り敗者であるのみだ)人間が、己が悲しき
銃の斉射を祝砲のごとく迎え入れんことを。