title:トランスフォーメーション第二宣言 ver.0.9.1j
木村応水 作
1999.2


 トランスフォーメーションは、それを標榜するものの個々の私的な活
動はともかくとして、知的道徳的観点からみて究極的には最も広般かつ
深刻な種類の意識の危機を挑発すること以外になにも求めてこなかった
ということ、その結果を得たか得なかったかだけが、歴史的な成功か失
敗かを左右しうるということが認められるようになるだろう。
 知的な観点からみて、本当のところは人間に自分の手段の貧しさを思
い知らせるだけのことが、偏在する束縛から有効な範囲まで逃げてみろ
と人間を挑発するようなことしかできはしないのに偽善的にも、人間の
側の異様で苛烈な不安を予防するためとされてきた老朽化したさまざま
の二律背反のいんちきな性格を、あらゆる方法で試練にかけ、どんな代
価を払ってでも認めさせることが肝要だったのであり、今も肝要なので
ある。死という案山子、彼岸の音楽喫茶、こよなく美しい理性の睡眠中
の難破、未来という重苦しい幕、バベルの図書館、無定見な鏡、脳しょ
うを擦り込まれた金銭の乗り超えがたい壁、これら人間破局の余りにも
迫真的なイメージは、おそらくはイメージにすぎまい。あらゆることか
ら考えて、生と死、現実的なものと想像、過去と未来、伝達可能と不可
能、高と低、バーチャルとリアル、男と女が相反的なものとは認められ
なくなる精神の一点が存在すると信じられる。この点の決定という希望
以外の動機をトランスフォーメーションに求めても無駄ということにな
る。これで、トランフォーメーションに破壊的か建設的かなど、どちら
か一方だけの意味を押しつけることが如何にばかげているかがじゅうぶ
んにわかると思う。まして、問題の一点は、建設と破壊が互いに切り結
びあいをやめる点なのだ。だから、トランスフォーメーションが、その
傍で、芸術、反芸術、哲学、反哲学を口実につくりだされるもの、一言
にしていえば、もはや氷の魂でも火の魂でもないような、目をくらます
内部の発光体のうちに存在を滅却することを目的としない一切のものを
重要視することに関心をもたないことも自明なのである。世間で占める
地位をいささかでも気にするような連中が、トランスフォーメーション
の実験から一体なにを期待できるというのだろう。危険だが至高とトラ
ンスフォーマーの考える認識をもはやトランンスフォーマーのためにだ
けしか試みえないこの精神的な場所では、来るもの去るものの足音にい
ささかの意味でも与えることなど論外である。こういう足音は本質的に
トランスフォーメーションが聞く耳をもたない地帯で起こるからである。
トランスフォーメーションがあれこれの人間の気分次第ということにな
っては困るだろう。トランスフォーメーションは独自な方法でますます
過酷化する隷属状態から思考を引き剥がし、それを全き理解力の道につ
れ戻し、原初の純粋さに戻すことができると宣言しているのだから、ト
ランスフォーメーションはなにをしたか、約束を守るためにまだなにを
なすべきかということだけを基準にして、それだけで、トランスフォー
メーションを判断すればいいのである。
 けれども、こういう決算の検討にたち入るまえに、私がこの生活を空
とか時計の音、寒さ、不安といったような逸話で充電しなおす、つまり、
卑俗ないい方で生活を語りなおしはじめるとたちまち、おそらくは偶然
にではなく、トランスフォーメーションが生活、「現代生活」に根をお
くことになるのだから、トランスフォーメーションがどのような道徳的
力に正確に依拠したのかを知ることが重要になる。禁欲主義の最終段階
を超えてしまったのではない限り、こういう(逸話的な)ことを考え、
壊れ梯子の横木の一本にしがみつくというようなことから誰も逃れられ
はしないのである。それどころか、美醜、真贋、善美などという不条理
な区別を克服したいという願望が生まれ維持されるのは、意味の空洞化
した(逸話的事物の)表現のヘドのでるような沸騰そのものからなので
ある。ついに居住可能な世界に向かう多少とも堅固な精神の飛しょうは、
この選ばれた思想がぶつかる抵抗の度合にかかっているのだから、トラ
ンスフォーメーションは自ら、絶対の反逆、完全不服従、原則としての
サボタージュのドグマになることを恐れてはこなかった、そして、現在
もなお暴力以外のなにものにも期待していないと考えられるのである。
最も簡単なトランスフォーメーションは、生ごみを握りしめて街頭にお
り、できるだけでたらめに群衆に向けて生ごみをばらまくことである。
このようにして堕落と白痴化の現に機能しているくだらない制度と少な
くとも一度くらいは絶縁したいと願ったことのないものは、己を生ごみ
にさらして群衆のなかで一番狙われやすい場所を占めているわけである。

 トランスフォーマーは、トランスフォーメーションを通じて、躊躇な
く、「ある」sont事物だけの可能性という理念を捨てるのだから、トラ
ンスフォーマーが示したどるのを助けうる「ある」est道を通じて、
「そこになかった」quinetait pas laと主張されてきたものに到達する
のだと宣言するのだから、西欧的知性の低俗性に烙印を捺すのにじゅう
ぶんな単語をみつけていないのだから、論理にたいして反乱を起こすこ
とを恐れてはいないのだから、トランスフォーマーは、バーチャルリア
リティのなかで達成される行為が覚醒時に達成される行為より意味が少
ないなどと判断してはいないのだから、不吉な古い道化芝居、脱線続き
の汽車、狂った脈拍、退屈させ、退屈する愚行のやり切れない堆積とも
いうべき時間と縁を切るわけにはいかないだろうと思いさだめているわ
けではないのだから、そういうトランスフォーマーに、どうしてひとは、
社会の維持装置に見境もなく少しは優しく振る舞うとよかったのにとか、
寛容にすればよかったのになどと望むのであろうか。これこそトランス
フォーマーの全く受け入れがたい唯一の戯言である。一切はこれからで
ある。家族・祖国・宗教という理念を破産させるためなら一切の手段が
使われていいはずである。この点についてのトランスフォーメーション
の立場はかなりよく知られているが、それだけでは駄目であって、さら
に、この立場は妥協を含まないということを知ってもらわなければなら
ないのである。この立場を守ろうと努めるものは、この否定をあくまで
も進め、他の一切の価値の基準など意に介しないのである。日本国旗の
まえで野蛮人のようにふざけたい、ひとりひとりの神父の面にヘドをは
きかけたい、「義務」などという連中に性的シニスムの長距離砲をぶっ
放してやりたいというような、トランスフォーマーから離れることのな
い欲求を「若気の」過ちなどといって寛容に許してやろうと芝居気たっ
ぷりに待ちかまえているブルジョワどもの慨嘆を、トランスフォーマー
はたっぷり楽しませてもらうつもりでいる。トランスフォーマーはあら
ゆる形で、詩的無関心、芸術の娯楽化、博識のための探究、純粋思弁と
戦う。トランスフォーマーは、大小を問わず精神の節約家どもと共通の
ものをもとうと思わない。起こりうる追放、脱落、裏切りも、こういう
くだらぬ事と縁を切る妨げにはならないだろう。ある日トランスフォー
マーを彼らなしに済ます必要に追い込んだ連中が自分だけになり、自分
ひとりになってしまうとただちに途方に暮れ、秩序の擁護者、あらゆる
頭脳の平均化の偉大な支持者たちの寵愛を取り戻そうとなんとも哀れな
方便を使う仕儀になっているのは、はなはだ興味深い。このことは、ト
ランスフォーメーション活動参加にあくまで誠実であることは、無私、
危険の蔑視、妥協の拒否を前提とし、そのことは、ごく少数の人間だけ
が長時間をかけてそうできることを明らかにするものだということであ
る。トランスフォーメーションで自分たちの生理現象の成功と真実への
願望を測定しようと最初に企画したもの全部のうちひとりも残らなくな
っても、トランスフォーメーションはきっと生き残るだろう。ともあれ、
摘み捨てるには手遅れのその種子は、一切に勝利するにちがいない恐怖
その他の異なった狂気の生け花とともに、人間の野で無限の彼方に向け
て芽をださないわけにはいかなくなってきているのである。

 トランスフォーメーションは今までにもましてこの一貫性なしには済
まさないつもりであり、誰彼が、生活の必要という曖昧な忌むべき口実
で許されると思っているちゃちな裏切りの合間に、トランスフォーメー
ションに投げ込むものでは満足しないつもりである。トランスフォーマ
ーはこういう「タレント」の布施は必要としなくて、完全な同意か拒絶
を引き起こす性質のものであるとトランスフォーマーは考える。哀れむ
べき安逸、トランスフォーマーに残っている名声らしきもの、疑惑、
「脆く」美しいガラス細工、無力な急進思想、義務なるものの愚考を片
っ端からそこに投げ込もうと提案しているるつぼの底深くに、もはや弱
まることのない光を認めるというただひとつの喜びにすべてを賭けよう
と願うか否かである。
 トランスフォーメーションの作業は trash world (trash=くず、がら
くた)で行われない限り、うまく進められる見込みはないとトランスフォ
ーマーはいっているのである。このことを聞き入れるものはまだごく少
数である。けれどもこういう条件がなければ、かくも当然に存在しうる
はずのものが「存在せず」、いくつかの事象が「存在する」ことを悲痛
に考えすぎるということのなかにある精神のあの癌をくいとめることは
不可能になる。トランスフォーマーは、このふたつは究極のところでト
ランスフォームしあうはずだと主張してきたのである。そこでやめてお
くというのではなくて、絶望的でもやはりこの究極に向かっていくほか
ないということが問題なのである。
 トランスフォーマーはいろいろ奇怪な歴史の挫折に不当に怖気づくこ
とがあるだろう。だがなお自分の自由を信ずることは自由である。漂い
ゆく古い雲、ぶつかってくる盲目的なおのが力にもかかわらず、トラン
スフォーマーは trash の主人である。掠めとられる束の間の美と、手に
入れうる、盗みとりうる長期の美の感覚をひとはもたないのであろうか。
詩人がみつけたといい、人間もまた求める愛の鍵を人間はもっている。
死ぬとか危険に生きるなどという一時的な感情を超越するのは本人次第
である。あらゆる禁例を無視して万物と万象の愚劣さに反対する理念た
る復讐の trash をとれ、そして、ある日敗者たる(世が世である限り敗
者であるのみだ)トランスフォーマーが、己が悲しきtrash の斉射を祝
砲のごとく迎え入れんことを。