トランスフォーメーション第一宣言 ver.3.0.1 j
木村応水 作
1999.10
Transformation:
http://www.transformers.to

transform:

〜の外見、様子を〜に一変させる、変形、変容、変態させる。
〜の性質、機能、用途などを〜に変える。
エネルギーを別のエネルギーに変換する。


 人生への、人生のなかでもいちばん不確実な部分への、つまり、いう
までもなく現実的生活なるものへの信頼がこうじてゆくと、最後には、
その信頼は失われてしまう。トランスフォーマーというこの決定的な夢
想家は、日に日に自分の境遇への不満をつのらせ、これまでに使わざる
をえなくなっていた品々を、なんとかひとわたり検討してみる。そうい
う品々は、無頓着さによって、それとも努力によって、いやほとんどい
つもこの努力によって、トランスフォーマーの手にゆだねられてきたも
のだ。というのは、トランスフォーマーは働くことに同意したからであ
り、すくなくとも、運を(運と称しているものを!)賭けることをいと
わなかったからである。そうなると、いまでは、おおいにつつましくす
ることがトランスフォーマーの持ち分になる。これまでどんな女たちを
ものにしてきたか、どんな出来事に足をつっこんできたかは、自分にも
わかっている。豊かだとか貧しいとかいうことはとるにたりない。この
点では、人間はまだ生まれたばかりの子どものままだし、また道義的意
識への同意については、そんなものなどなくても平気でいられるという
ことを認めよう。いくらか明晰さを残しているなら、このとき、トラン
スフォーマーは自分の幼年時代を頼りにするしかない。調教師たちのお
せっかいのせいでどれほど台無しにされていたにもせよ、幼年時代は彼
にとって、やはり魅惑に満ちたものに思えることにはかわりがない。そ
こでは、つらさとして知られているものがいっさい存在しないために、
同時におくられるいくつもの人生の見通しを許される。トランスフォー
マーはそんな幻想の中に根をおろす。もはやすべての事物の、その時か
ぎりの、極端な安易さしか認めようとはしない。毎朝、子供たちは不安
なしに出かける。すべては手近にあるし、最悪の物質的条件でさえもす
ばらしい。

 トランスフォーメーションというただ一つの言葉だけが、今も私をふ
るい立たせるすべてである。思うにこの言葉こそ、古くからの人間の熱
狂をいつまでも持続させるにふさわしいものなのだ。それはおそらく私
のただ一つの正当な渇望にこたえてくれる。私たちの受け継いでいる多
くの災厄に混じって、精神の最大の自由が今なお残されているというこ
とを、しかと再認識しなければならない。それをむやみに悪用しないこ
とが、私たちの役目である。想像力を隷従に追い込むことは、たとえ大
まかに幸福などと呼ばれているものがかかわっている場合でも、自分の
奥底に見い出される至高の正義のすべてから目をそらすことに等しい。
トランスフォーメーションこそが、ありうることを私に教え、またそれ
さえあれば、恐ろしい禁例を少しでも取り除くのに十分だ。そして、間
違える(これ以上間違えることができるかのようだが)心配もなしに、
私がトランスフォーメーションに身をゆだねるのに十分だ。トランスフ
ォーメーションはどこから悪くなり始めるのか、トランスフォーメーシ
ョンの安全はどこで断たれるのか? トランスフォーマーにとって、あ
やまちを犯すことの可能性は、むしろ善の偶然性なのではあるまいか?

 トランスフォーメーションをはかるのはトランスフォーマー、トラン
スフォーメーションをなすのもトランスフォーマーである。自分がすっ
かり自分のものになるかどうかは、つまり、日ごとに恐ろしさを増す自
分の欲望の群れを無政府状態に保てるかどうかは、ひとえにトランスフ
ォーマーしだいである。トランスフォーメーションがそのことをに教え
る。トランスフォーメーションは私たちの耐えている諸々の悲惨に対す
る完全な補償を内に含んでいる。トランスフォーメーションはまた、な
にかさほど本質的ではない失意に襲われて、それを少しでも悲劇的にと
らえたいなどと思う時には、とりなし役を果たすこともできる。トラン
スフォーメーションが金銭の終焉を宣告し、地上のために、独力で天上
のパンをちぎる日よ来れ! その時あちこちの公共広場ではさらに集会
がひらかれ、あなたが参加をあてにしてなどいなかったさまざまな運動
が行われるだろう。ばかげた選別よ、危険予防の手すりよ、なにかにつ
けての潮時よ、さらばだ! あとはただトランスフォーメーションを実
践する労をとるがよい。すでにそれによって生きている以上は、私たち
自身が新証拠とみなしているものを優先させようとつとめることこそ、
私たちの役目ではないだろうか?
 このような擁護と、あとにつづくことになる顕揚との間に、多少の不
釣合があったところで、かまったことではない。トランスフォーメーシ
ョンの源泉までさかのぼり、あまつさえ、そこに踏みとどまることが問
題だったのである。といっても、それをやりとげたと自称しているので
はない。はじめはなにごともうまく行きそうに見えないこの奥地に陣ど
ることをのぞむからには、いわんや、誰かをそこにつれてゆこうとのぞ
むからには、おおいに心をひきしめてかかる必要がある。しかも完全に
そこに身をおいているという確信はけっして得られるものではない。ど
うせ居心地の悪い思いをしなければならないのなら、別の所に立ち止ま
る気になってもよい。ともかくも今、一本の矢がアートワールドの方向
を差し示しており、本当の目標に行きつけるかどうかは、もはやトラン
スフォーマーの忍耐一つにかかっている。

 はやく友人たちにもその恩恵を享受させたいとのぞんでいたこの新し
い純粋な方法論を、トランスフォーメーションの名で呼ぶことにした。
思うに、今日ではもはやこの言葉をとらえなおす必要はないだろうし、
この言葉から私たちの受け取っている意味のほうが、辞書における意味
よりもあまねく優勢になっているはずである。辞書の方は逆に、トラン
スフォーメーションという字面だけをいまだに不完全な形で所有してい
たにすぎず、トランスフォーマーを引き付けるような理論的外観を与え
る力がないことを露呈してしまったように思われる。

 トランスフォーメーションという言葉を、私たちが理解しているよう
なごく特殊な意味において用いる権利に異議をとなえるむきがあるとし
たら、それはひどい悪意のしわざである。そもそもトランスフォーマー
よりも以前に、この言葉が世に受け入れられたことがないのは明らかだ
からである。そこで、いまこそきっぱりと、私はこの言葉を定義してお
く。
 トランスフォーメーション。中性名詞。心の純粋な自動現象であり、
それにもとづいて美術、音楽、文学、建築、その他あらゆる方法を用い
つつ、思考の実際上の働きをプラグ・インしようとくわだてる。理性に
よって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づ
かいからも離れた思考の書きとり。
 トランスフォーメーションは、それまでおろそかにされてきたある種
の芸術形式のすぐれた現実性や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に
基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の
主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。絶対
的トランスフォーメーションを行為にあらわしてきたのは、ローランド
・ポリティ、レックス・ロエブ、木村応水、ジョジィ・コブ、ロジャー
・ピーターソン、ステファノ・パスキーニ、バナバス・ストリックラン
ドの諸氏である。
 現在までのところ、以上の面々だけであるが、それぞれの成果を表面
的に見るだけならば、多くの人々がトランスフォーマーとみなされうる
だろう。私は、背任の結果として天才とよばれているものを格下げする
ために、これまでさまざまな試みにふけってきたものだが、その間にな
にひとつとして、トランスフォーマーション以外のプロセスに帰着しう
るものを見いだせなかったのである。
 アンドレ・ブルトンはシュールレアリスムにおいてトランスフォーマ
 ーである。
 ウイリアム・バロウズはカットアップにおいてトランスフォーマーで
 ある。
エイゼンシュタインはモンタージュにおいてトランスフォーマーであ
 る。
 サドはサディズムにおいてトランスフォーマーである。
 ヒトラーはナチズムにおいてトランスフォーマーである。
 フロイトはリビドーにおいてトランスフォーマーである。
 ニーチェは超人においてトランスフォーマーである。
 デュシャンはレディメイドにおいてトランスフォーマーである。
 等々。

 ローランド・ポリティにきいてみたまえ、彼こそはおそらく私たちの
うちでもトランスフォーメーションの真実にもっとも近づいた人物であ
り、いまだ発表されていないいくつかの作品のなかで、またこれまでく
わわってきた度重なる実験を通して、トランスフォーメーションに託し
ていた私の希望を十分に裏づけてくれたうえに、さらに多くのものをそ
こに期待することを強いている人物なのだ。こんにち、ローランドは、
好きなようにトランスフォーメーション語を話す。彼が自分の思考を口
頭でたどってゆくときのあのおどろくべき迅速さは、私たちをよろこば
せるあのすばらしい弁舌とおなじだけ大きな価値がある。ローランドと
してはそれらを定着させている暇などない以上、そうした弁舌は消えさ
ってゆく。彼はいきなり本をひらいて読みだすようにやすやすと心のう
ちを読みつづけ、人生の風にとばされるそのページの一枚一枚を手もと
にのこそうなどとはまったく思わないのである。

 トランスフォーメーションは、それに没頭している人々に対して、好
きなときにそれを放棄することを許さない。どう考えても、それは麻薬
のように精神に働きかけるものにちがいない。麻薬と同様、それはある
種の欲求状態をつくりだすわけだし、おそるべき反逆へと人間をかりた
てることもできる。さらに、おのぞみとあれば、それはいかにも人工的
な楽園のひとつである。トランスフォーメーションの生みだしうるもろ
もろの神秘的な効果や、もろもろの特殊な享楽についての分析、多くの
側面から見て、トランスフォーメーションはひとつの新しい悪徳の様相
をおびているわけだが、それは一部のトランスフォーメーションの専有
物になるべきものだとは思われず、あたかもハシッシュのように、あら
ゆる鋭敏な人々を満足させうる力を持っている、そのような分析につい
ても、この研究の中にしかるべき位置を与えないですますことはできな
い。
 トランスフォーメーション的なイメージについては、あの阿片による
イメージとおなじようなことがいえる。つまり、もはや人間の方から呼
び起こされるものではなく、「自然発生的に、有無を言わさず人間に差
し出されるものである。人間はこれを追い払うことができない。なぜな
ら、意志はもはや力をもたず、もはや諸機能を支配してはいないからで
ある。」あとはそのようなイメージをかつて「呼び起こした」ことがあ
るかどうか、それを知りさえすればよい。

 無数のタイプにわたるトランスフォーメーションには分類が求められ
るだろうが、こんにちのところ私はそれをこころみるつもりはない。特
殊な類縁性に応じてそれぞれをまとめようとすれば、あまりにも遠大な
作業になってしまうだろう。ここではなによりも、それらに共通する効
能について考慮したい。私にとってもっとも強いトランスフォーメーシ
ョンとは、もっとも高度な気ままさを示しているものであることを、隠
さずにいおう。それはつまり、実用的な言語に翻訳するのにもっとも時
間のかかるイメージなのであって、たとえば、法外な量の外見的矛盾を
ふくんでいたり、項のひとつが奇妙にうばわれていたり、センセーショ
ナルな出現を予感させながらもかすかにほぐれるけはいを見せていたり
(コンパスの脚の角度をふいにとじてしまったり)とるに足りない形式
的な正当化をそれ自身のなかからみちびいていたり、幻覚的な種類に属
していたり、抽象的なものに具体的なものの仮面をごく自然に貸しあた
えていたり、あるいはその逆であったり、ある種の基本的な物理的特性
の否定をはらんでいたり、笑いを爆発させるものであったりする。

 トランスフォーメーションにのめり込むトランスフォーマーは、自分
の幼年時代の最良の部分を、昂揚とともに再び生きる。それはなにかト
ランスフォーマーにとって、いましも溺死しようとしている時に、自分
の生涯のとらえがたい部分のすべてを、またたくまに思い起こしてしま
う人の確信のようなものである。それではあまり乗り気になれないと言
われもしよう。けれども私としては、そんなことを言うやからを乗り気
にさせようなどと思ってはいない。幼年時代やその他あれこれの思い出
からは、どこか買い占められていない感じ、したがって道をはずれてい
るという感じがあふれてくるが、私はそれこそが世にも豊かなものだと
考えている。「真の人生」に一番近いものは、たぶん幼年時代である。
幼年時代をすぎてしまうと、人間は自分の通行証のほかに、せいぜい幾
枚かの優待券をしか自由に使えなくなる。ところが幼年時代には、偶然
に残らずに自分自身を効果的に所有するということのために、すべてが
一致協力していたのである。トランスフォーメーションのおかげで、そ
のような好機が再びおとずれるかに思われる。それはあたかも、人が自
分自身の救済あるいは破滅にむかって、今も走り続けているようなもの
だ。

 トランスフォーメーションの諸手段はそのうえ、さらに拡大されるこ
とを求めるだろう。ある種の結合から好ましい唐突さを得るためならな
んでもいい。アンフィオニーやアブラフィアは、もっとも洗練された部
内の文学的な展開の中に、何か常套句を持ち込むのと同じ価値がある。
新聞から切り抜いた見出しや、見出しの断片を、できるだけ無作為によ
せ集めて(お望みなら、構文法は守ろう)得られたものに、『詩』とい
う題をつけることだって許される。