title:恋愛論 ver.2.5j
木村応水 作
1995


 『快楽(けらく)』 武田泰淳
 「林芙美子さんが、今日のA新聞に書いていたの、お読みになった?
あの方は、お坊さんが好きだったそうですよ」
「いいえ、読みません」
「久美ちゃん、読んだでしょう」
「ええ」
と、妹はかすれた声で、姉にこたえた。
「坊さんが好きですって、ばかばかしい」
「あら、どうして」
と、姉の方が白っぽい半襟の首をよせてくると、そちら側だけ柳の首は、
こわばった。
「ヘンですよ、そんなの。おかしいですよ、そんなの」
「でも、林芙美子さんは、そう書いていらっしゃる。文学者ですもの、
ウソはつかないでしょう。少女時代からずっと、今でも、若いお坊さん
には、たまらない色気を感じるそうですよ」
「厭だなア。アイスクリームの天ぷらを、食べたがるひとだっています
けどね。いろんな物に食べあきてくれば、とんでもない物を食べてみよ
うとする。それは、物好きで、そうなるだけですよ」
 できるだけ憎ったらしいような、意地わるいようなことばを、むりに
吐き出さないと、年上の女には馬鹿にされると考えて、わざと柳は、皮
肉屋みたいにふるまおうとしていた。
「小説家って、無責任なこと書くから、大きらいだ」
 車が急ターンして、柳の肩が左側の久美子の方へ押しつけられた。う
す桃色の半襟の首が、びっくりするほど白く、よわよわしくよじれて、
女がつめていた呼吸が、自分の体力で今にも、紅をぬった唇からほとば
しりそうだと、彼は勝手に感じていた。若奥さんの片掌が、そのはずみ
に彼の右膝にかかった。
「それは目黒さんは、清浄潔白な方ですもの。林さんが何とおっしゃろ
うと、知らん顔して、うけつけないでしょうけど」
「いや、つまり、ぼくは・・・・・」
「若い坊さんを好きになるような女は、バカだと・・・・・」
「いいえ、ただ、彼女はなんにも知らないんです。坊さんのこと、知ら
ないでいて、そんなこと言ってるだけで」
「坊さんの、どんなこと知らないと、おっしゃるの」
「坊さんの厭らしさですよ」
「さあ、どうかしら。林さんぐらいになれば、それくらいのこと知って
るでしょ」
「そんなら、どうして」
「厭らしい男は、どこにでもいますわ。お坊さんに限ったことじゃあり
ません。でも、厭らしくないお坊さんだって、いることよ」
 そう言われると、待っていましたとばかり嬉しがりそうになる、自分
をうまく抑制することなど、柳にできるわけがなかった。
「いますかねえ。そんな偉い坊さんが。ぼくの知ってる坊さんにはいま
せんよ」
「スタンダールの『赤と黒』。あれに出てくるジュリアン・ソレルは、
お坊さんだったでしょ。久美子も、私も、ジュリアン・ソレルが大好き
なのよ。ねえ、久美子」
「ええ・・・・・」
 柳は、まだスタンダールなど読んだこともなかった。
「勇敢な美青年でね。ずうずうしくて、抜け目がなくて、可愛らしいの」
「でも、それは、フランスの昔の話でしょう」
 柳はそう答えながら、ずうずうしくて抜け目がない勇敢な美青年が、
こういう女性には可愛らしいんだな、よくおぼえておこうと思っていた。
「そのソレルとかいう男は、女に好かれて、色々と冒険をやったりする
んですか」
「ええ、そうなの」
「ああ、それじゃ、そういう男は、仏教で言う坊さんとは、ちがいます
よ。そういうのは『坊さん』じゃありませんよ」
「でも、たしかに彼は、カトリックの坊さんだったのよ」
「それはただ、名前だけで、坊さんとは言われないなあ。それは、ただ
の美青年ですよ、きっと。ただの勇敢な男ですよ」
「でも、お坊さんだって男じゃありませんか」

 「‥‥だが、しかし、彼女に会わないでいることも、おれは欲しない。
そうなんでしょ」
「そんな、小説みたいなこと」
「小説みたいであることが、何がはずかしいの。小説みたいであること
だけが、美しいのよ」
「ちがいます」
「いいえ、ちがいません」
彼女は、声をたかめることもしないで、言った。
「わたくしは、みずみずしいものが好きなのよ。みずみずしいものだけ
が、好きなのよ。そのほかに、何があって」
「‥‥いつまでも、みずみずしいものなんか、ありませんよ。みずみず
しいということは、どんな物でもすぐ消えてしまうんだ」
「そうよ。諸行無常ですものね。だけど、だからこそ、みずみずしいも
のが美しいのよ」
「第一、ぼくは‥‥」
「みずみずしいのよ、あなたは、わたくしにとって」
「みずみずしい坊主なんか、あるわけがない」

 「まあ、まあ、法界坊みたいに、きたなくなっちまって。みっともな
い。どうせやるなら、天一坊みたいに、ハデなことをおやりよ。痩せち
まって、苦労するばかりで、何にもならないことやるの、およしよ。つ
まらないじゃないの」
「お母さんみたいに、ハデなことばっかりねらったって、ダメなんだよ。
人生は地味な苦労もしなくちゃな」
「だって、こんな目に遭ってたら、一生、ハデなことなんかできそうも
ないじゃないの。はたで見ていても、歯がゆくて、ばかばかしくて‥‥」
「お母さんの満足のする、ハデなことって一体どんなことなんだい。大
臣や大将にでも、なれって言うのかい」
「息子のことは、母親が一ばんよく知ってますよ。なれっこないものに、
なってくれなんて、誰も頼んでいやしない」
「でも、なれたら、大臣、大将になってもらいたいんだろう」
「なれっこないものに、ムリになれと言ったって、しょうがないでしょ
う」
洗えば洗うほど出てくる、柳の背なかの垢(あか)に母親はあきれかえ
っていた。
「大臣、大将はダメだとしても、文学博士もあれば、代議士もあるよ。
大僧正だって、いいわよ。小説家だって菊地寛先生ぐらいになれば、た
いしたもんじゃないの。大金持にでもなってくれれば、何よりいいけど。
あんたには店一つひらく才覚はないだろう。ひとかどのモノになってさ
えくれれば、お母さん、文句は言わないけど。だけど、お前さん、何に
もなれそうもないんだもの。それじゃ、困るじゃないの」
白タイルの床にすえた、小さな腰かけに、好きかってな格好で腰をおち
つけ、自由に手脚をのばしたり、ちぢめたりして、柳は入浴をたのしん
でいた。母がふんだんにあびせてくれる湯、あたたかく舞いあがる湯気、
気持のよいシャボンの香りで、彼はすっかり満足していた。
「あんたが殴られたり、いじめられたりしたって、誰も感心したりして
くれる人、いやしない。少しでも可哀そうがってくれるのは親だけよ」
いくら隠そうとしても、柳の肉の変色した部分が、母親の眼に入らぬわ
けにはいかなかった。傷あとなど、親に見られるのは、何よりイヤであ
る柳も、裸であるからには、見られることを防ぐことはできなかった。
「そりゃあ、そうだよ」
母親の指さきを、くすぐったがりながら、柳は言った。
「可哀そうがられるはずはないさ。もともと、そんな資格がないんだも
の。自分だって、感心していないんだから、他人が感心するわけがない」
「だから、もっと人から感心されるようなことを、おしよ」
「そうはいかないよ」
「どうして。どうして、そうはいかないのよ」
「だって、そうはうまくいかないよ。そう、人を感心させろと言ったっ
て。第一、いいじゃないか。そう感心させなくたって」
「それじゃあ、男として生きがいがないじゃないの。世すてびとなら、
それでいいかもしれないよ。昔っから、風流人とか文人墨客とかさ、あ
あいう人はそれでいいかもしれないよ。あんたは、風流人でもなければ、
文人墨客でもないじゃないか。そうだろう? 今から世すてびとになっ
て、どうするのさ」


 『オーバン神父』 メリメ
 「神父様、私、ラテン語が習いたいんですの・・・・・。神父様、私、
植物学が学びたいんですの・・・・・」なんと彼女は拙僧から、神学の
手ほどきまでが、してもらいたいと言いだされたものです! まさに度
胆というとこでしょうが? とにかくこの教養欲を満たすには聖A・・
・・・神学校における教授の全部が必要だというわけです・・・・・。
幸い、彼女の気まぐれは、長続きせず、講義が三回を越すことはめった
にありませんでした。ラテン語でrosaというのは薔薇という意味だと教
えると「まあ、神父様、あなたってまるで科学の井戸ですのね! どう
してこんなノワールムーチェのような所に埋もれておいでになりますの
?」と叫ばれたものです。

 彼は優しく人なつこい心の生まれつきだった、それなのに、一生消え
ずに残るような印象をあまりにもたやすく受ける年ごろに、あまりにも
むき出しな彼の感受性は、学友たちの嘲笑をかった。彼は気位が高く、
野心家でもあった。子供みたいに他人の評判を気にするたちだった。そ
のためこのとき以来、彼は自分のみっともない弱点だと思うことは、す
べて隠そうと苦心した。この所期の目的は一応達しはしたものの、この
勝利は高価なものについた。優しすぎる心の感動を他人に隠すことには
成功したが、感動を内部に押しこめる結果、それは百層倍も辛いものに
なった、社交界では非情なくせにぼんやり者だとの悪評はたてられるし、
一人でいても、持ち前の落ち着かない想像力は、なにかと心に憂悶を生
み出すのだが、その秘密をだれにも打ち明けようとしないので余計に耐
えがたい苦痛となって、心に植えつけられるのであった。


 『排蘆小舟(あしわけおぶね)』 本居宣長
問 むかしから世をすてた墨染の身でありながら、恋の歌をよんだ僧侶
の例はかずしれない。しかも、それをためらった様子がみえないのは、
どういうわけなのか。色欲は仏道のふかくいましめるところ、犯しては
ならない第一の悪徳にかぞえられている。ところが、僧侶がよんだ恋の
歌がかえってもてはやされたりする、たとえば、僧正遍昭(そうじょう
へんじょう 816-890)などは、歌の世界では、とりわけよくし
られた名である。そういう道心を失った僧侶を、どうしてほめそやすの
か、にくみ、排斥するのが当然ではないか。
答 なんというおろかなことをいうのか。まえにもくわしく説明したよ
うに、歌はこころに思うことを、ことばえをととのえていうものである。
こころにうかぶことなら、善であれ、悪であれ、そのままよんでゆくの
が歌である。こころをとらえた色欲を歌にする、よいではないか。それ
がよい歌なら、ほめたたえるのになんの遠慮がいるだろうか。歌がすぐ
れてさえいれば、僧俗のちがいは問うところではない。
 また、歌をよむものの人柄や行状、その善悪の美醜については、別個
に論じればよいので、歌の立場からとやかくいうべきことではない。歌
の道において論ずべきは、ただ歌がよいか、わるいかという一点だけで
ある。僧侶だから恋の歌をよんではいけない、というような無意味なこ
とをいう必要がどこにあるだろうか。それとも、出家とさえいえば、み
な仏陀や菩薩のようなこことをしている、とでも考えているだろうか。
僧侶にすこし好色めいたふるまいがあると、ひとびとがそれをにくむこ
とは俗人の場合とは雲泥のちがいで、あたかも大罪をおかしたかのよう
に非難する。たしかに、色欲は仏陀のふかくいましめることであり、輪
廻や妄執のきずなとして、それにすぎるものはない。そこで、僧侶が色
欲をきらい、それを避けようと努力するのは当然だが、僧侶とておなじ
凡夫の身であり、俗人とちがった性質があるわけではなく、人情におい
てなんのかわりもあろうはずがない。
 しかも、ことは万人のこのむ好色の道であり、僧侶だけがそれをきら
う理由はありえないのである。もちろん、こころに思うことは俗人とお
なじでも、出家の身である以上、欲情をおさえ、身をつつしむのは当然
である。しかし、僧侶がこころに好色を思うことまで非難するのは、人
情を解しないもののすることである。
 仏陀がふかく色欲をいましめたのをみても、それを避けることがいか
に困難であるかがわかるはずである。そこで、僧侶としては、身をかた
く持し、欲情をしりぞけ、恋の道にふみこまないようにすべきだが、そ
れだけに、かえってこころの中では好色の思いがつのり、鬱積するのは
自然のなりゆきである〔それがないのは、木石のたぐいだろう〕。その
はけ口のない思いを、せめて歌によってはらそうとするのだから、じつ
にあわれではないか。
 すぐれた恋の歌が俗人より僧侶のあいだに多いのは、むしろ当然であ
る。ところが、いまでは歌をよむ僧侶も、恋の歌はためらってよまない。
いや、歌にかぎらず、今日の僧侶は、およそ好色のことについては、いっ
さい関心がないというそぶりをみせる。これは、いまの世の僧侶も俗人
も、こころにいつわりが多く、考えかたもまちがっている証拠である。
僧侶だからといってどうしてこころに好色の思いをいだかないことがあ
るだろうか。それにつけてもむかしのひとは素直で、こころをいつわっ
たり、かざったりするのがすくなかったことを思い出す。
 ある老僧が参詣にきた京極の御息所(みやすどころ)とよばれる貴婦
人のうつくしさに打たれ、その手をとって、「初春の初子(はつね)の
今日の玉箒(たまばはき)手にとるからにゆらぐ玉の緒」、こんなにわ
たしのこころはふるえている、とよんだというむかしのはなしは、じつ
にやさしく、あわれである。しかし、いまでは、僧侶が恋の歌をよんだ
りすれば、見下げはてたなまぐさ坊主とあなどられ、きらわれるのがお
ちである。また、僧侶のほうでも、おもてむきは清廉潔白なそぶりをみ
せながら、じつは色欲を避けるどころか、俗人にもまして淫乱なふるま
いにおよぶものがすくなくない。そういういつわりのこころは、いくら
にくんでも足りるということがない。


 『裸の大将放浪記』 山下清
 塩釜駅でよその人に「いろけと言うのは何ですか」と言ったら、よそ
の人が「いろけという物は 人にわらわれないように かっこよくやっ
て 人にすかれるようにやるのがいろけだ」と言われたので「大人にな
ると いろけが出て来たとか 若い人はいろけがあると言うのは どう
いう事ですか」と言ったら よその人が「大人になるといろけが出てく
ると言うのは大人になれば 子供と違って 大人はこういう事をすると
みっともないとか こういう事をすればかっこうがいいとかわかるよう
になって かっこよくやって人にわらわれないように 人にすかれるよ
うにやって行くのがいろけだ 若い人はいろけがあると言うのは 年よ
りとくらべると 年よりは年をとってて もうろくをして かっこがい
いのか かっこうが悪いか わけがわからなくなってしまうので 若い
人はさかりだから こういう事をすると みっともないというのがわか
ってて かっこうよくやるので それで若い人はいろけがあるんだ
子供と大人とくらべると 小さい子供ははなをたらして平気で居るので
大人になればはなをたらして平気で居るとみっともなくて人にわらわれ
るから 大人になれば子供と違って はなをたらさないように かっこ
よくやるのが そこがいろけが出て来るんだ そのほかに 子供は人の
前ではだかになっても 人にわらわれない 大人になれば 人の前では
だかになれば人にわらわれるから 人の見て居ない所ではだかになって
服を着がえるようにして 大人になれば人にはだか姿を見せないように
するのがいろけだ」と言われたので「いろけと言うのは人にわらわれな
いように かっこうよくやって 人にすかれるようにやるのがいろけで
すか」と言ったら よその人が「そういう事がいろけだ いろけはそれ
ばかりではなくて そのほかにも いろけと言う物があるんだ 庭に色
々な花が沢山さいて居るとすれば 花はどの花が一番きれいな花かと言
うと 花はどの花を見てもきれいな花だ どういう色をしている花とか
どんな形をしてる花とか 大きい花とか 小さな花とか 花はどんな色
をしてる花でも 大きくても小さくても 皆花はきれいです 花にはこ
の花がきれいな花で この花はそんなにきれいな花じゃないと言う花が
ないんだから 花は皆きれいな花で 皆きれいな花だから 色々な花が
さいて居る時 皆きれいな花だなと思って見て居ると どの花がきれい
な花だかわからなくなって おもしろくはないから 自分の好き好きを
言うのがおもしろみがあって それがいろけだ」と言われました


 『手鞠(てまり)』 瀬戸内寂聴 
 煙を目にしみこませながら、火を吹いていると、少なくとも今、まだ
良寛さまは生きていらっしゃるのだという喜びが湧いてきた。
 二千四百年前の印度の釈尊の最後の旅のお姿が思われる。あの尊いお
方でさえ、最後の病いは良寛さまと同じようなものであった。
 激しい下痢に悩まされながら、クシナガラへ旅をつづけられた釈尊の
苦しみを思うと、釈尊も良寛さまも、人はこうして病み、苦しみ、糞尿
にまみれながら、汚わいにまみれて逝くものだということを、教えられ
ているような気がした。人の世の人の苦しみを一身に代わり受けてくだ
さっているような尊さと有難さが湧いてきた。そだを折る音が愕くほど
静かな空気をきりさいた。

 良寛さまの眉と同じに陰毛も真白で清潔だった。生まれたての子猫の
ような手触りの陰茎をあたたく濡れた手巾(しゅきん)で拭き、陰嚢の
皺の汚れまでそそき拭くと、私は思わず、子供のように、
「さあ、きれいになった」
といい指でそこをぽんとはじいてしまった。
良寛さまがくすっと笑われ、お腹をひくひくうごめかされた。小さな獣
のように、それらもひくひくとゆれた。
 寝巻を着かえさせ、汚れものを井戸端へ運び、私は月明りを頼りに洗
いながら、やっぱり涙をとめることができなかった。

 由之さまと交代でお伽(とぎ)をしている時、私はさりげなく、
「お心にかかることはございませんか、御気持は如何でしょうか」
と申しあげた。良寛さまは薄目をあけて、まっ直私の目を捕え、
「死にとうない」
とつぶやかれた。聞きちがいかと、一瞬目を大きくしたが、その私の表
情をごらんになって、うっすらと微笑され、
「死にとうない」
ともっとはっきりいわれた。
「こんなにやさしい人たちに囲まれているのだもの、もっとこの娑婆に
ながらえたい気がする」
もはや薬も食事も自ら断れているようなので、私も覚悟を決めていた。
「御辞世は」
良寛さまは半分眠ったようなうつらうつらとした音声で、
「散る桜、残る桜も散る桜」
とつぶやかれ、そのままひきこまれるようにすとんと眠りに入られた。
理につきすぎて良寛さまらしくないお歌だった。やはり辞世というのは
まだ神経のしっかりしている時につくっておくのがいいのだろうか。