title:仕事 ver.1.0j
木村応水作
1998.3


 『ディヴィット・コパフィールド』 ディケンズ
 伯母と私は、これから、私が身を入れてやる筈の職業のことで、幾度
も真剣に、考えてみた。一年以上も、「一体何になりたいのかね?」と
いう、しばしば繰り返される伯母の側に対して、私は満足な答えを得よ
うと、努力していた。だが、これといって、特に、好きなものが見当た
らなかったのだ。もし、私が航海学の知識をたたき込まれて、司令官と
なり、発見の、意気ようようたる航海に、世界を周り歩くことでも出来
たとすれば、それがほんとうに、自分に適していると考えたかもしれな
いのである。だが、そんな、奇抜な用意とては、一向、ないので、私の
願は、伯母の懐をあまり痛めないような仕事に従事して、たとえ、それ
が何であろうとも、それに対して、自分の義務を果たしたいというので
あった。


 『海軍』 獅子文六
(おれが、画家を志した動機が、まちがっていたのではないか)
すべての画家は画が好きで、画家になったのだ。これは、一つの例外も
考えられない事実であろう。隆夫といえども、もちろん、画が嫌いでは
なかったが、画家となることは、あの二度目の不合格を見るまでは、夢
にも考えなかった。
(おれは、“海軍”に反抗するつもりで、画家になったのだ)
その動機を考えてみると、結局、ヤケに近かったことを、認めるほかは
ない。少なくとも、美を愛して、画家になったのではないことが、歴然
とわかってくるのである
(動機が、不純だったのだ。その罰を、いま、受けているのだ)
彼は、そういう風に、解釈した。
すると、なにもかも、絶望の水底へ、沈んでいくのである。画家として
の将来も、上京以来の必死の努力も、みんな、水の泡のような気がして
くるのである。

「もちろん、画家の危機ってやつは、一生に一度は、われわれを襲うも
のだ。自分の過去の仕事が、すべて空虚にみえて、もう、なにをするの
も、嫌になる‥‥。絵の具の匂いを嗅いでもムカムカしてくる‥‥。だ
けれど、そういう経験をするのは、画を始めてから、十年とか、十五年
たってからのことだぜ。君が、年齢のわりに、優れた腕をもってるのは、
僕もよく知ってるけれど、もう、危機のくるほど、画業を積んでるとは、
思われないんだ。すると、‥‥神経衰弱だよ。単純な神経衰弱だよ」
鶴原は、ハキハキと、推論した。
「そうでしょうか」
低い声で、青年が答えたが、腹の中では、画家の危機だろうが、神経衰
弱だろうが、そんなことは、どうでもよかった。ただ、足元の土が地滑
りを起こしたような不安と焦燥を、早く逃れたいと思うだけだった。
「やっぱり、勤務しながら、画をやってるということが、過労になるか
も知れないね」
いささか、慰めるように、鶴原がいった。青年は鶴原などと違って働き
ながら、画業にいそしんでいるのである。銀座のある化粧品会社の宣伝
部が、彼の勤め先だった。
「そうかも知れません」
彼は、乾いた声で、答えた。


 『清貧の書』 林芙美子
 与一はあらゆるものへ絶望を感じている今の状態から自分を引きずり
上げるかのような、まるで、鞭のようにピシピシした声で叫んだ。
「今時、溺れるものが無ければ生きて行けないなんて、ゼイタクな気持
ちは精算しなければいけないんだ。全く食えないんだから‥‥」
「食わなくたって、溺れていた方がいいじゃないの‥‥」
「君はいったい何日位飢える修養が積んであるのかね、まさか一年も続
くまい」


 『西行花伝』 辻邦生
「それもな、一日二日ではないのじゃ」と父はお酒ですっかり上機嫌に
なって言うのでした。「おまえたちには信じられぬだろうが、十日、二
十日と、ぶっ通しに、朝目覚めたら今様、夜になればなったで今様とた
だただ今様だけを歌いつづけられたのじゃ」

「宗輔殿は笛を吹くか、今様を歌うか、おかしな話をしてみんなを笑わ
せるかだし、顕仲殿や宗忠殿は難しい字句の注解釈を話題にし‥‥。そ
れに多くの場合は歌だね」
「重実殿は、そうした宴が雅であると思っているのだろう」
「そうだね。それだからこそ、ああして夜おそくまで月を賞でたり虫の
音に聞き入ったりして歌を読むのだろう。私はね、そこにいるのが楽し
いんだ。いままで味わったことのないような、のびのびした嬉しさを感
る。とくに、野放図な宗輔殿と一緒にいると、この世のこせこせした煩
いなどどうでもいいような鷹揚な気持ちになる。宗輔殿ときたら、三条
西殿であの色っぽい少輔内侍の文箱に蛙を入れておき、内侍がそれを開
けてびっくりするのが見たさに、日がな一日、食事もしないで蚊帳のか
げに頬杖を突いて隠れていたというのだからね。宗輔どのに較べると、
私など田仲荘のことでも、成功(じょうこう)のことでも、くよくよし
通しだ。今までそれが当たり前でいた。しかし重実殿のところへゆくと
別世界に入ったような気になる。ひょっとしたら生死を超えた生き方、
矢を射るに相当する何か大きな生とは、こうして月や花に溺れて、生死
のことも、事が成る成らぬも忘れ果てて生きることかもしれない、と思
うことがあるんだ」義満が雅についてこんなふうに話すのを聞いたのは、
その時がはじめてでした。

 すこし話が前後したが、要するに義満が何かに熱中すると、限度とい
うものを知らなかった。普通の人が疲労困ばいするところを、義満の頑
健な体力は平気で乗りきった。事実体も大きく、十四の頃すでに十八の
がっしりした体格をしていた。いつかわたしは弓場で弓を持ったまま眠
っている義満を見たことがある。聞いてみると、二日二晩、ぶっ通して
矢を射つづけていたというのであった。しかも本人は眠ったことに気付
かず、気持ちのなかでは、まだ矢を射つづけているつもりだったのだ。
 わたしに起こされると、手に持った弓とわたしとを半々に見て「この
おれは何をしていたんだろう」とまるでわけがわからないような顔をし
たのである。


 『孤独の発明』 ポール・オースター
 毎朝早起きして、夜遅く帰宅し、そのあいだは仕事、ただひたすら仕
事。仕事こそ父の住む国の名であり、父はその最良の愛国者だった。だ
がそれは、仕事が父にとって喜びだったということではない。父がこつ
こつ働いたのは、とにかくできるだけ金をたくさん稼ぎたかったからだ。
仕事は目的に対する手段、金という目的に対する手段だった。けれでも、
では目的たる金は喜びをもたらしてくれたかといえば、やはりそうでは
なかった。若きマルクスは書いている。「金は私を人間的な生活に結び
つけ、私に社会を結びつけ、私と自然と人類とを結びつける絆であるな
らば、金とはあらゆる絆の絆ではないか? それはあらゆる絆を解いた
り結んだりできないだろうか? ゆえにそれはまた普遍的な分離剤なの
ではなかろうか?」


 『ハーツォグ』 ソール・ベロー
 顔が、とくに目が、暗く、緊張し、彼はズボンをぬぎ、シャツの胸を
ひろげた。そのあいだにも、考えていた。花屋の店を手伝うといいだし
たら、ラモーナはどう応じるであろうか。手伝っていけない理由はない。
顧客に応対することで、実社会と接触したいのだ。孤立した学究生活の
寂しさは、彼のような気質の男にはきびしすぎるものがあった。