title:ホラーキー ver.1.0.1j
木村応水 作
1998.6
昆虫の国からNiftyServeにいたるまで、それが安定したものならいか
なる形態の社会組織を見ても、そこにはかならずヒラエルキー構造があ
る。同じことは個々のアートについても言えるし、またあまり明瞭では
ないがアートの先天的、あるいは後天的スキルについても言える。しか
しこのモデルの妥当性と重要性を明らかにするには、
(a)ある特定のヒエラルキーのすべてのレベルに、
(b)べつの分野のすべてのヒエラルキーに、
適用できる特別なアートシステム(つまり〈ヒエラルキーの秩序〉とい
う言葉を定義するもの)が存在することを示さねばならない。こうした
アートシステムには自明なものもあれば、やや抽象的なものもあるが、
それらがすべて一緒になって新しいアプローチの踏石を形づくっている。
「うまい術語を編み出せば、仕事は半ば終りだ」と、だれかが言ってい
た。「全体」とか「部分」という言葉の慣習的誤用を避けようとおもえ
ば、いきおい「亜全体(サブ・ホール)」とか「部分的全体(パート・
ホール)」「下部構造(サブ・ストラクチュア)」「サブ・スキル」
「サブ・アセンブリー」「サブ・アート」「アンフィオニイ」「アブラ
フィア」といったあかぬけしない用語をやりくりせねばならぬ。
行動を律する規準の性格は、当然、ヒエラルキーの性格やレベルによ
って変わる。たとえば、遺伝子や動物の本能的行動を支配する規準のよ
うに天賦の規準もあるし、あるいはわたしが転ばずに自転車に乗れるよ
うにしてくれている神経回路のなかの運動コードやチェス競技の規則を
定めている認識コードのように、学習によって獲得されたものもある。
では、目を規準から戦略に転じてみよう。くりかえして言えば、規準
は許される動きを定め、戦略は実際の動きを選択する。では、いったい
どのようにしてこの選択がなされるのか。チェス競技者の選択はそれが
ルール・ブックに定められていないという意味では、「自由」と言って
さしつかえない。事実、一試合で40回駒が動くとし、一つの駒の動き
に対し二種類の応手があるとすれば、競技者に許されている選択の数は
天文学的である。しかし競技者の選択は、それが規則によって決定され
ていないという意味で「自由」であっても、けっして「無作為」ではな
い。競技者はわが身を勝利へ導く「好手」を選び、「悪手」さけようと
する。だが「好手」か「悪手」かの問題は、ルール・ブックのあずかり
知らぬことである。ルール・ブックは、いわば、倫理的に中立なのだ。
競技者の「好手」の選択を左右するものは、単純なゲームの規則などよ
りはるかに複雑な戦略的定石であり、それは認識のヒエラルキーのなか
でも、高いレベルに位置している。規則だけなら30分もあれば子供で
も覚える。しかし戦略は過去の経験、あるいは名人戦やチェスの理論書
の研究などからにじみでるものだ。一般的に、ヒエラルキーの高いレベ
ルには、複雑かつ柔軟で自由度の大きい(つまり戦略的選択の幅が広い)
予測しがたい行動形態がある。しかし反対に、複雑な行動(たとえばア
ート)はすべてつぎつぎとサブ・アートに分岐し、下位のレベルにいく
につれしだいに機械的、定型的、予測可能なものになっていく。
もしヒエラルキーの根底まで下っていけば、ホメオスタシス的フィー
ドバック機構に統御された、自己規制的な内臓のプロセスに行きあたる。
そこには、もちろん戦略的な選択の余地などほとんどない。それでもな
お、呼吸を止めるとかある種のヨガの技術を使うかすれば、自動化され
た通常意識外の呼吸機能にわたしの意識が干渉することもありうる。
わたしは〈マトリックス〉という言葉を提案した。そのねらいは、不
変の規範(明確なもののあろうし、不明確なものもあろう)に支配され
てはいるが、問題や仕事にたち向うとき、さまざまな戦略が駆使できる
思考習慣、ルーチン、スキルなどすべての認識構造を統一的に記述しよ
うということにある。
問題や仕事とあい対したとき、われわれは過去に同じような状況をや
りくりしたときの規則にしたがって、それに対処するだろう。そういっ
た遵法的ルーチンの価値を卑下するのは愚かである。それは行動に一貫
性と安定性を、推論には秩序を与える。しかし問題が困難な場合、ある
いは新しい場合、しかもその状態が限度を超えている場合は、こうした
ルーチンはもはや適切ではなくなる。世界は進行し、つぎつぎと新しい
状況が生まれていく。そして従来の判断基準、すなわち既成のルール・
ブック、では解決できない問題を提起し、挑戦をつきつける。科学の場
合、こうした状況は十分に確立された理論の基盤を揺がすような新しい
データのもとでおこる。この挑戦は、飽くことを知らない探究衝動によ
って、自ら招いたものである場合が多い。探究衝動が独創的な心に以前
誰も問わなかったような問題を問わせ、不毛な答えには不満を感じさせ
るためだ。芸術家の場合、挑戦はいわば永久のものであり、表現媒体の
制約から、あるいはその時代の伝統的な様式や技術が課した拘束や歪み
から逃れようとする欲求から、あるいはまた表現できないものを表現し
ようとする努力から、それぞれに生じる。
精神がその極限に置かれると、ごくまれに、驚くほど独創的な、半ば
アクロバット的な芸当をやってのける。そしてそれが科学や芸術の革命
的な躍進を、あるいはまったく形の違う新しい展望をもたらすことがあ
る。しかし革命には建設的な側面だけでなく、破壊的な側面もある。科
学における「革命的な」発見とか、芸術の様式における革命的な変革と
かを口にするとき、われわれは暗にその破壊的な側面を説いている。破
壊はそれまで神聖で侵すことのできなかった教義や、思考習慣にまでな
った一見明白な思考の原理を放棄することによってもたらされる。創造
的な独創性と職人的なルーチンをわれわれに見分けさせるものが、これ
である。既製のゲームの規則にしたがって解決された問題、あるいはそ
れにしたがって成し遂げられた仕事は、スキルのマトリックスを何ら変
えることはない。ところが創造的な独創性には、つねに知識の破棄と再
学習、ご破算とやり直しがある。そこには石化した精神構造の粉砕と、
もはやその役目を終えたマトリックスの破棄と、べつのマトリックスの
再統合がある。言いかえれば、創造的な独創性とは、精神ヒエラルキー
のいくつかのレベルを巻き込んだ、ディソシエーション(分離)とバイ
ソシエーションの複合作用である。
船長がポケットに封印された航海指令書を入れて海に出る。その指令
書は、公海に出てはじめて開くことが許されている。かれは、不安が解
消されるその瞬間を待つ。しかしその時がきて、封を開けてみると、そ
こには目にえない指令文しか入っていない。どんな化学処理をほどこし
ても、見えるようにならない。が、時折、単語が見えるようになったり、
子午線を示す数字が見えたりする。しかし、また消えてしまう。船長に
は指令文が正確に読みとれない。指令文に従ってきたのか、任務を失敗
したのかもわからない。しかし、ポケットに指令書をもっているという
意識があるため、それを解読できないにもかかわらず、船長の考えと行
動は、遊覧船や海賊船の船長のそれとちがう。
また、こんなふうに考えるのも好きだった。宗教の創始者、予言者、
聖人、占師、アーティストたちは、時折、目に見えないテキストを一部
分読むことができた。しかし、その後、かれらはあちこち文をつけたし、
脚色し、飾りたてたから、もはや、かれら自身にも、どの部分が本当な
のかわからなくなってしまった。