title:神様 ver.1.0j
木村応水 作
1996
別冊・話の特集
色川武大・阿佐田哲也の特集
(※本名 色川武大、別名 阿佐田哲也)
阿佐田先生! 長門裕之
あんまりじゃありませんか。ひどいじゃありませんか。
残された僕らは、どうすればいいんですか。阿佐田先生、教えてくだ
さい。
なぜ、一関だったんですか。僕と同じ、東京生まれ東京育ちのあなた
が、どうして見知らぬ土地で、亡くなられたんですか。僕らや東京から、
逃げ出そうとでもしたんですか。もし、そうなら僕は許しません。生き
返ってきてください。
あなたはしばしば、僕らと共に魑魅魍魎の世界に遊ばれた。ボロボロ
になるまで、バクチをし、際限もなく時を過ごす楽しさに溺れた。それ
でいながら、阿佐田先生は誰にも気を配られるという稀有な人だった。
人一倍デリケートな方だったと思います。そのあなたが、突然転居して
見知らぬ場所へ行ってしまうなんて、僕にはやっぱりわかりません。
僕は、考えました。「阿佐田先生」と呼ばれることが、邪魔になった
のか。われわれには計り知れない別の世界に旅立とうとしたのか。もっ
と純粋で特別な文学者になる決意を固められたのか。それとも、もっと
違う人間関係を求められたのか。
そんなの許しませんよ。裏切りですよ。阿佐田先生、僕は何か間違っ
たことを言ってるんでしょうか。突然変化されたら困っちゃうんですよ。
迷っちゃうんですよ。
しかも、死んでしまうなんて、もっともっと別の世界に行ってしまわ
れたわけですからね。どうしていいかわからなくなるのが当然だと思い
ませんか。
阿佐田先生が、クリーンで限り無く透明な世界へ入ってしまったとし
たら、もう僕らはチリやアクタになっちゃうじゃないですか。「ちょっ
といらっしゃいませんか」なんて軽く電話することも出来なくなっちゃ
うじゃありませんか。嫌ですよ、そんなの。
あしたのことを考えないで、太く短く、今に生きる。それが阿佐田先
生のスタイルだったように思います。ある日、ふと、あしたのことを考
えたのでしょうか。細く長く、もっといい仕事をしようなんて、らしく
ないですよ。振り子のように揺れ動いて、どうしようかどうしようかと
迷って、行ったり来たりしているのが似合うし、その方がよかったんじゃ
ないか。どこか自虐的でアウトサイダーの眼で自分を見て、悦楽を感じ
ているようなところもありましたね。
阿佐田先生については、いくら話してもこれでいいということはあり
ません。
阿佐田先生! 残された僕らはどうしたらいいんですか。せめて、心
配ぐらいさせて欲しかった。看病は無理でも、見舞いぐらいには行きた
かった。あれほど気を使う先生にしては、どうして今度だけは気を使っ
てくれなかったんですか。やっぱり、許せません。帰ってきてください。
悪夢ですよ、ほんとに。大好きだった阿佐田先生が亡くなってしまっ
たなんて! あなたを見ていて、僕はいろいろなことを教えられました。
あなたがいるから、人生に怖いものがなかったような気さえします。こ
れからどうしたらいいのか。夢枕でも何でもいいですから、どうか教え
てください。僕はお別れの言葉なんて言いませんから・・・・・。
(これは一九八九年四月十三日、千日谷会堂での弔辞に加筆したもので
す)
睡ったまま 畑 正憲
阿佐田さんは、しばしば睡りこけた。両膝に手をつき、首をすこし右
へ傾け、音もたてずに睡ってしまった。そんな時、体はほとんど揺れず、
前につんのめりもしなかった。座布団一枚の牢獄に閉じこめられている
かのようであった。卓を動かすとか、牌山をこわすとか、事故を起こし
たためしは一度もなかった。彼は切ないほどきちんと自分の空間の中で
夢の世界に入っていた。
私は、そんな彼を見るのが好きだった。彼が自然に醒めるまで見てい
たかった。
ところが、誰かが必ず名を呼んで起した。彼は重そうにまぶたを開き、
自分はどこにいるのだと辺りを見廻す。最近の若い娘の表現を借りるな
ら、まさに目が点になっていた。
「あ、ボク・・・・・」
そう言って右手を伸ばそうとするのだが、手が意のままに動かない。
小刻みに震わせながら空間をまさぐる格好をする。あらぬ方へと手を出
すので、誰かが、
「あ、阿佐田さん、違う違う」
と言って、その手を誘導する。彼はそこでやっと麻雀に戻り、目に生き
ている気配が甦ってくる。太い指で牌をつもり、右端に置いてから、掌
で隠しながら、三枚か四枚を器用にこねくりまわした。それは、彼の身
についている仕事だった。
それからおもむろに河を見て、考え、切り出すとまた睡りこんでしま
った。
彼との麻雀はその繰り返しであった。いつだったか、胸の前で、睡った
まま両手をひらひらさせたことがあった。手だけ踊っているようだった。
それほど深く睡りの渕に吸いこまれているのに、彼の暴牌は見たこと
がなかったし、切り間違えだって、本人が言うほどには多くなかった。
きちんと整然と打っていた。
睡りこけているので、今のうちだと危険牌を切り出すと、途端に眼を
開け、それ、と言ってゆっくり手牌を倒したものだった。不思議な触覚
があり、睡っていても、必要なものが場に出ると、脳へ信号が行くのじゃ
ないかと思ったものだった。
大きな和りにぶちこみ、「なんだ、阿佐田さん、睡っちゃいないじゃ
ないですか」とこぼす人を何人も見かけた。
あまり睡るので、みんなが心配し、もうやめようと言いだすと、彼は
しばしば手洗いに立ち、顔を洗って帰ってきた。
「ようし、もういいぞ。負けちゃおれない。睡るからよくないんだ」
と、彼は子供みたいにはしゃいだ。笑うと赤ん坊だったし、煙草で染
まった黄色い歯が可愛くこぼれた。『乃なみ』の女将が、つきっきりで
冷たいおしぼりを頭にのせてあげたこともあった。
一晩中、以上の動作が繰り返され、しかし卓上は結構熱い闘いが展開
されていて、大きな和りがとびかい、結局は痛みわけになったこともあ
った。すると阿佐田さんが、
「ああよく睡った」
と、背伸びをし、本当に熟睡から醒めた人みたいに、眼をぱっちり開
き、実にさわやかな表情をした。これには全員、開いた口がふさがらな
かった。
私は阿佐田さんが永眠したなどとは信じられない。誰かが声をかける
と、
「あ、ボク・・・・・」
と言って起きてくるに違いないと思っている。彼が自分より先に逝く
なんて、納得できない。きっと彼なら起きてくる。
ウチの“兄さん” 立川談志
色川武大先生は私の事を“兄(あに)さん”と呼ぶ。もっともそう呼
ばれる訳ありで、私も先生の事を“兄さん”という。双方“兄さん”で
ある。
私が先生を兄さんと呼ぶのは、人生の先輩であり、年上であるから当
然だが、私が先生の事を先生と呼ばずに兄さんと呼ぶのは、先生が私の
事を兄さんと呼ぶ事に理由(わけ)があって、私は兄さんと呼ぶのであ
る。(どうだ、ヤヤコシイだろう。でも分かるだろう・・・・・)
そんな先生に死なれて、心底困った。他の作家なんざァ何人死のうが、
束でクタばろうがへほどにもないが兄さんには困った。
私を家元とする「立川流落語会」の顧問である兄さんは、私にとって
かけ替えのない作家であり、人生相談の相手であり、同じ趣味と、似た
ような感性で、寄席演芸を愛してくれた私の師匠であった。
かけ替えのない人に死なれるほど、悲しくて、困ったものはない。
総理大臣をはじめ世の中にかけ替えのある奴はいくらも居る。いや、
ほとんどがそうである。だが兄さんは、私のように感情が激しく、それ
が外に向かってそのまま表われ、行動につながる種類の人間にとって、
もってこいの兄さんであり、くどいようだが、かけ替えのない御人(お
ひと)であった。
ちなみにいうと、それ以前の私の師匠は、落語界を除いたら故紀伊国
屋書店会長、田辺茂一先生であった。
ウチの兄さんはあの通り「生きる」という事のギリギリの場にいた。
それは最後までそうだったと思う。
若き頃、最も非生産的な生活をしていて、正常という名の一般社会から
締め出しを喰って、それも良しとしながら、世の人と一緒に生きられな
い己れのジレンマを抱えて、寄席に入るとそこに「俺と同じ人種がいて、
俺とおんなじ生活を喋っているんだヨナ」と言ってたっけ。
その兄さんがみた、私の識らない寄席芸人の数々、コメディアンの面々、
活動写真のスタアや脇役、端役達・・・・・。それらの話をゆっくりし
ながら、互いに兄さんと呼びながら生きるつもりでいたのに。
ま、正直いってあまり長生きはしねェと思いながら・・・・でも、ま
さか六十歳でと思うとたまらない。
寄席芸人をあの様な眼でとらえて、書いてくれた人はいない。正岡容
(いるる)にもそんな部分を感じた事もあったが、兄さんとはどこかが
違っていた。それは正岡容には悪いが、才能の差かも知れない。その才
能の兄さんを喜ばせる事の出来た己れの芸に、私は最大の誇りを持って
いる。
「兄さんの噺の中で、クサると顔がいいネ」と兄さんに言われたが、そ
の顔は、兄さんに受けさせるべく、鏡の中で私がこしらえた、ウイット
のつもりでもあった。
私のみた兄さんの世界は、兄さんにとってほんの部分であるはずで、
その世界はもっと広く、より深く、また、仕上げたい対象もゴマンとあ
ったはずなのに・・・・・。
返すがえすも残念無念である。
兄さんとは下品な話をした事がなかった。
兄さんの常用してる薬を飲んで出来あがったジミー時田が、一晩中唄
ってたのを困った顔をして聴いていたっけ。
麻雀の話も己れからはしなかったなあ。
無駄な会話がなかったっけ。
「今日は出来がイイネ」といってくれたっけ。
「あれは洒落にならないネ」とあの人なつっこい顔で笑ったっけ。
「田舎へいくんだヨ」といったのが最後だった。でも「根津の近くに家
を借りとくから・・・・・」といいながら「根津と東北と、兄さんと同
じだヨ」と、私が根津に越して仙台に土地を持っている事を、そういっ
た。
私は最も好きな作家と、人生の師匠を失った。
なに、私だけではない。
文壇の大マイナスであるはずだ。
色川さんと立川談志 山藤章二
色川さんとは、パーティーや劇場ロビーで、雑誌の対談で、たまには
酒場の“芸”の話をよくしたが、その中に立川談志がしばしば登場した。
「談志という男は、あれだけの腕と頭をもちながら、いつもそれを見せ
びらかせてるでしょ。だからマクラは圧倒的に面白いんだけど、噺に入
ると、落語独特の心なごませてくれるものがなくて逆に緊張させてるで
しょう。“疲れる落語”ってのはどうなんですかねェ・・・・?」
そう尋ねたら色川さんは、
「そういう所はあるけれど、そのうちいやでも枯れてきますよ。といっ
てもただの年寄り芸になるんじゃなくて、いまの鋭さをもった新しいタ
イプの枯れた芸、っていう所に行くと思うからそれが楽しみなの。だか
ら、もっと長いレンジで見てやった方がいいと思うな」
あのボソッとした低い声で、私の近視眼的評価をやんわりとたしなめ
てくれた。なるほど好きな芸人とつき合うというのはこういうことかと、
教えられた思いがした。もう、十年前の話だ。
色川さんと最後に会ったのが今年の三月一日。この時も談志がらみだ
った。
「超二流会」という催しを談志が企画し、第一回のゲストにフランキ
ー堺を招いた。なつかしのラジオ番組「フランキー講談」を楽しもうと
いうのである。テレビはガキに占領されて大人の芸の出る幕がないと、
悲憤こうがいしきりの彼がようやく見つけたひとつの方法だった。
朝日ホールでの会は大成功し、打ち上げでの談志はご機嫌だった。乾
杯の挨拶に立った色川さんは、
「今日のプログラムを見ていて、談志さんがやろうとしていた大人の芸、
東京の芸の復興の姿がだいぶハッキリと見えてきてとても楽しかった。
僕はまもなく岩手の方に行くんで、実は今日も引っ越しの荷造り中なん
だけど、この会には必ず出て来ますから是非つづけてください」と結ん
で盛大な拍手を受けた。
続いて私が呼ばれたので、色川さんの挨拶をうけてこう話した。
「色川さんはご存知の通り立川流の名誉顧問です。でも、まもなく田舎
っぺになってしまうので顧問の資格がなくなります。となると、こう見
渡して、他にふさわしい人がいないので、当然この私が次期・・・・」
横で色川さんは、あのなんとも云えぬいい顔で笑っていた。
訃報後、色川さんを偲んでいろいろなコメントが語られたが、談志の、
「困っちゃった・・・・・」という万感のこめられた言葉が、私には最
も痛切にひびいた。
ありがとうございました 青柳賢治(プロ雀士)
一月の終りころだったろうか、横浜から成城のお宅へ電話をかけてみ
た。ジャズ大好きの後藤さんが取次をしてくれて「早く、いらっしゃい」
との返事をいただいた。
もう引っ越しの準備はほとんどすんでいて、映画だらけだった居間は
がらんどう。食堂と食器棚だけがいつもどおりだった。
先生と後藤さんが台所に立って鍋物の支度をし始めたので「どなたか、
お客様ですか」とたずねると「内、内だからいいの。そこでお酒でも飲
んでいなさい」といって、真っ黒なボトルの日本酒を差し出してくださ
った。
しばらく一人で飲んでいると、川上宗薫夫人、作家の黒川氏、元秘書
のアンさんの三人がワッとなだれ込んできて、いっぺんににぎやかにな
った。お酒、ウイスキー、ビール、それぞれ好きかってな物を飲んで、
鍋から思い思いの具を取っておしゃべりを楽しんだ。どうやら送別会だ
ったようだが、先生はうれしそうだった。目も口もゆるんでいたし、体
中で笑っていた。
「こんどの家は部屋がたくさんあるから、いつでも泊にりにいらっしゃ
い」
大分、酔ってしまって、なんと返事をしたのか覚えていない。そうし
て「私、こんなに長居したの初めてですね・・・・・」とおなじことを
何度も繰りかえしたずねていた。
先生は何も言わずに微笑んで、仏像のように優しく、ただじっと私の
顔を見ていてくださった。私はうれしくて、うれしくてたまらなかった。
それがお別れになってしまった。
なぜ、もっとお話しを聴かなかったんだ。どうして、もっと側にいな
かったんだ。靴も履けないほど酔ってしまったバカな男です、許してく
ださい。
矢来町のお通夜の帰り道、ぼんやりと神楽坂をあるいていたら、いた
るところに先生の匂いや影があった。カポネのようなたて縞の背広。映
画にえんぴつ、アイスクリーム。自転車、うなぎ、古本屋。下駄、レコ
ードに日本そば。きりがなくあります。
私は先生を想い出すものがたくさんあって幸せです。永い間ありがと
うございました。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠
りください。そうして、時々は、リーチや東のようになって、あの笑顔
を見せてください。
TO LIFE MASTER 村上ポンタ秀一
TO〈朝だヨ早く帰れ〉様!
何が色川武大だ、コノヤロ〜!
俺はあんたが大好きだった。大好きです。
(今でも)
今、一関の“ベイシー”でこれを書いてるんです。さっき、お線香あげ
ても、何にも言わないし。(あたりめえか)
あの“オッサン”の生き様が好きだし、かといって真似する気もない
けど。逐一、価値観が似てるし格好が似てる様な気がするんで・・・・。
その位しか言えない。
バカヤロー! 色川武大、ここで“ベイシー”で、一緒に飲みたかっ
た。
いつも俺の中にはアンタ。湿った事は言いたくありません。オレも近々
かもネ。そしたら遠慮なんかいらないし・・・・・。
色川さん、帰っておいでよ! オレ達はまだあんたの所に行けない。
でも近いかもネ。向こう側で鼻ででも笑いつつ、あなたの仲間の生き様
を観てて下さい。
声が届きますように!
TO LIFE MASTER MR色川武大
FROM 不肖のPONTA
一っ時、さようなら!!
『レ・ミゼラブル』 ユゴー
すぐれた精神の持主にも、それぞれ崇拝するものがあり、それに対し
て論理的に失礼な言い方をされると、なんとなく傷つけられたように感
じられるものだ。
『宿六・色川武大』 色川孝子
私は色川に背を向け、眠ったふりをしたのでしたが、それでも彼は点
滴の針がさしてあるほうの腕を動かして、私の肩を指でつつくのです。
「どうしたの」
彼は、片方の手のひらを表にしたかと思えば、裏へと返し、ひらひら
させて、おどけるのでした。
「それ、何なの」
「お星さま」
あまりのばかばかしさに、二人して顔を見合わせ、小声で笑ってしま
いました。彼のベッドと私の簡易ベッドには段差があり、さぞ疲れるだ
ろうと思うのですが、このあと彼は私の手を強く握り締めたまま、いび
きをかいて眠ったのでした。
まだ、生きているかのように、彼の身体は暖かく、皮膚は柔らかく、
心地よく眠っているとしか思えないのでした。心臓は停止してはいても、
脳は生き続けているかのように。
真夜中の『お星さま』は、なにを意味していたのでしょうか。ただ単
に、おどけていただけだったのでしょうか。それとも、別れの挨拶だっ
たのでしょうか。何かを語りたかったのでしょうか。教えてください。
ぜひ、もう一度、口を開いてほしいのです。