『Genesis 2000』のソースは、
『歴史の研究』
A.J.トインビー 著 
長谷川松治 訳
中公バックス 世界の名著61

p144-
 楽園から無常な世界に追放され、そこで女は苦しんで子を産み、男は
顔に汗してパンを得なければならないようになるが、それは、蛇の挑戦
を受諾したことから生じた当然の試練である。そのあとに続く、アダム
とエバの性交は、社会創造の行為であって、その結果、二つの新生文明
の擬人的象徴である二人の息子、羊を飼う者アベルと土を耕す者カイン
が生まれる。
 人間生活の自然環境の研究者としてもっとも有名な、またもっとも独
創的な現代の学者の一人も、同じ物語を、専門の立場から次のように述
べている。
「大昔、裸で、家がなく、火を知らなかった野蛮人が、春のはじめから
夏の終わりにかけて、熱帯の暖かな住処を出て、だんだん北のほうへ移
動していった。九月にはいり、夜の寒さが身にしみて感じられるように
なるまで、彼らは常夏の国を後にしたことに気づかなかった。日一日と
寒さはきびしくなっていった。原因がわからないままに、彼らは思い思
いの方向に逃げていった。あるものは南に向かったが、もとのふるさと
にもどったのは、ほんの一握りの者だけだった。この少数の人々はそこ
でもとどおりの生活をはじめた。そして、その子孫は、今日にいたるま
で未開野蛮の状態にとどまっている。
「別の方角にさまよっていった連中は、ただ一つの小集団を除き、ほか
はみな死に絶えた。この小集団に属する人々は、膚を刺す寒さから逃げ
ることができないことを知って、人間の才能の中でもっとも高級な、意
識的発明の能力を利用した。あるものは地中に穴を掘って避難所を見い
出そうとし、あるものは木の枝や木の葉を集めてきて小屋と暖かな寝床
を造り、あるものは殺したけだものの皮で身をくるんだ。「わずかのあ
いだに、これらの野蛮人は、文明への大きな歩みのいくつかを実現した
のである。裸だったものが着物を着るようになり、家をもたなかったも
のが隠れ場所をもつようになり、その日暮らしの生活をしていたものが、
肉を干し、木の実といっしょに貯蔵して冬にそなえることを覚え、最後
に、暖をとる手段として火を作るすべを発見した。このようにして彼ら
は、最初はとても助からないと思われたところで生きながらえた。そし
て、過酷な環境に適応して行く過程を通して、巨大な進歩をとげ、熱帯
の住人をはるか後方に残すことになったのである」
 古典学者の一人も同様に、この物語を、現代の科学的用語に翻訳して、
次のように述べている。
「必要が発明の母であるならば、父は強情さ、すなわち、いいかげんで
見切りをつけ、生活の楽なところに移ってゆくかわりに、あくまでも不
利な条件のもとで生きてゆこうとする決意であるというのが、進歩の逆
説的心理である。すなわち、われわれの知っている形態の文明が、四回
くりかえされた氷河時代を特徴づける、あの気候と動植物の大異変の時
期に始まったことは、けっして偶然ではなかったのである。
「うっそうとした森林が立ち枯れ状態になったときに、かろうじて逃げ
出した霊長類は、自然法則のしもべの首位の地位は保ったものの、つい
に自然の征服は断念せねばならなかった。難関を切り抜けて、人間にな
ったのは、もはや腰をおろす樹木がなくなったときにその場にがんばり
つづけた連中、木の実が熟さなくなったときに肉で代用した連中、日光
のあとを追うかわりに火と衣服を作った連中、生息場所に堅固な防備を
施し、子供を訓練し、非合理に見える世界の合理性を立証した連中であ
った」
 つまり、主役である人間の受ける試練の第一段階は、動的な行為によ
る陰から陽への移行である。それは、悪魔の誘惑のもとに神の被造物に
よって行なわれるのであるが、それによって神はふたたびその創造活動
を開始することができる。しかし、この進歩には代価を支払わねばなら
ない。そしてその代価を支払うのは、神ではなくて、神のしもべである、
種をまく人間(マタイ25の24参照)である。
 最後に、幾多の曲折をへたのちに、勝利を得た受難者は開拓者の役目
を果たす。この神の劇の主役を務める人間は、神がふたたび創造活動を
行うきっかけを作ることによって神に奉仕するだけでなく、ほかの人々
のたどるべき道を示すことによって仲間の人間にも奉仕するのである。
 神話の与えるヒントを手がかりにして、われわれは挑戦と応戦の性質
について、ある程度の認識を得た。われわれは、創造が遭遇の結果であ
り、発生が相互作用の所産であることを知った。そこで、われわれの当
面の目的である、過去六千年のあいだに、人類の一部をゆり起こして、
「習慣の全一」から「文明の文化」に向かわせた積極的要素の探求にた
ちもどることにしよう。われわれの二十一の文明の起源を調べてみて、
経験的事実にもとづき、はたして「挑戦、応戦」という考え方が、われ
われの求める要因にたいして、すでに吟味の結果不充分なことが判明し
た人種説や環境説よりも、ましな答えを与えるかどうかたしかめてみよ
う。
 この新たな概観においてもやはり、人種や環境が問題になるが、しか
しわれわれはそれを、新たな見地から眺めることになるであろう。われ
われはもはや、いつでも、またどこでも、まったく同じ結果を生じるこ
とが立証されるような、そういう単純な文明発生の原因を求めるのでは
ない。われわれはもはや、同じ人種もしくは同じ環境が、ある場合に文
明を生み出すが、ある場合には文明を生み出さない、などというような
ことがあっても驚かない。事実、われわれはもはや、われわれの問題を
科学的に、生命をもたない力の作用の関数と考えていたあいだは当然求
めねばならなかった、自然の斉一性という科学的要請を固執しない。
 われわれはいまや、たとえ科学的に説明することのできる人種的、環
境的、ならびにそのほかのデータをすべて、精確に知っているとしても、
これらのデータが代表するいくつかの力の相互作用が生み出す結果を予
測することができない、ということを認める用意ができている。それは
ちょうど、軍事専門家が、どんなに相対峙する両参謀本部の配備や資源
に関する「内部情報」をもっていても、戦闘や作戦の結果を予測できず、
またブリッジの達人が、たとえ全部の人の手のうちにあるカードをこと
ごとく知っていても、ゲームの結果を予測できないのと同様である。
 たとえに引いたこの二つの場合において、「内部情報」をもっていて
も結果を的確に、あるいは確信をもって予測できないのは、「内部情報」
がすなわち完全な知識ではないからである。どんなに情報通の観戦者で
も、第一、戦闘している当の人間、勝負をしている当の人間にわからな
いのだからして、どうしても未知数として残るものが一つある。しかも
それが、答えを出そうとする計算者の解かねばならない方程式の、もっ
とも重要な項なのである。
 この未知数とは、試練が実際に起こったときに、その試練にたいして
行動を起こす人間の反応である。これらの心理的運動量は、もともと重
さをはかったり、長さを測定したりすることができず、したがってまた、
あらかじめ科学的に見積もることのできないものであるが、それこそま
さに、遭遇が起こったときに、実際に結果を決定する力なのである。