『物神礼拝』のソースは、
『資本論』
カール・マルクス 著 エンゲルス 編
向坂逸郎 訳
岩波文庫 第一分冊

第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
第一節 商品の二要素 使用価値と価値
   (価値実体、価値の大いさ)

p67-
 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」
として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したが
って、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。
 商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間
のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。これらの欲望の
性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろう
と、ことの本質を少しも変化させない。ここではまた、事物が、直接に
生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路を
へて生産手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題
となるのではない。
 鉄、紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の
観点から考察されるべきものである。このようなすべての物は、多くの
属性の全体をなすのであって、したがって、いろいろな方面に役に立つ
ことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様
な使用方法を発見することは、歴史的行動である。有用なる物の量をは
かる社会的尺度を見出すこともまたそうである。商品尺度の相違は、あ
るばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには伝習
から生ずる。
 一つの物の有用性〔すなわち、いかなる種類かの人間の欲望を充足さ
せる物の属性。※カウツキー版〕は、この物を使用価値にする。しかし
ながら、この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは、商品
体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものでは
ない。だから、商品体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というよう
に、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格は、そ
の有効属性を取得することが人間にとって多くの労働を要するものか、
少ない労働を要するものか、ということによってきまるのではない。使
用価値を考察するに際しては、つねに、一ダースの時計、一エレの亜麻
布、一トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされる。
商品の使用価値は特別の学科である商品学の材料となる。使用価値は使
用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社
会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれ
がこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は、同
時に、交換価値の素材的な担い手をなしている。
 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使
用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時と
所とにしたがって、たえず変化する関係として、現われる。したがって、
交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商
品に内在的な、固有の交換価値というようなものは、一つの背理のよう
に思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。
 一定の商品、一クオーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、
またはz量金等々と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で
交換される。このようにして、小麦は、唯一の交換価値のかわりに多様
な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、おなじくy量絹、同
じくz量金等々は、一クオーター小麦の交換価値であるのであるから、x
量靴墨、y量絹、z量金等々は、相互に置換えることのできる交換価値、
あるいは相互に等しい大いさの交換価値であるに相違ない。したがって、
第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表してい
る。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物
の表現方式、すなわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。
 さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄とをとろう。その交換
関係がどうであれ、この関係はつねに一つの方程式に表わすことができ
る。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される、例
えば、1クオーター小麦=aツエントネル鉄にも、同一大いさのある共通
なものがあるということである。したがって、ふたつのものは一つの第
三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の
二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値であるかぎ
り、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。
 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形
の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解い
ていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現、その底
辺と高さとの積の二分の一、に整約される。これと同様に、商品の交換
価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、
含まれるこの共通なあるものの大小が示される。
 この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的またはその他
の自然的属性であることはできない。商品の形体的属性は、本来それ自
身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にするかぎりにお
いてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品の交換関
係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽
象である。

p129-
第四節 商品の物神的性格とその秘密
 一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。
これを分析してみると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而
上学的小理屈と神学的偏屈にみちたものであることがわかる。商品を使
用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人
間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物とし
て得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少し
の神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を、
彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことであ
る。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。
それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変
わりない。しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的に
して超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床の上に立つのみで
なく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂
想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議な
ものである。
 だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。
それは、同じように価値規定の内容から出てくるものでもない。なぜか
というに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろ
あるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおの
が、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経
と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるか
らである。第二に、価値の大いさの規定の基礎にあるものは、すなわち、
それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の
質から紛うかたなく区別できるといってよい。どんな状態においても、
生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階の異なるにしたがっ
て均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないものであ
る。最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようにな
ると、その労働は、また社会的の形態をも得るのである。
 それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみち
た性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。
人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をと
る。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産
物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的
諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という
形態をとるのである。
 それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中に
あるのである、すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働
の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会
的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にた
いする生産者の社会的関係をも、彼らの外に存する対象の社会的関係と
して、反映するということである。このQuidproquo〔とりちがえ〕によっ
て、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的
な物となるのである。このようにして、ある物の視神経にたいする光印
象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的
形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際
に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼に
たいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係であ
る。これに反して、商品形態として表われる労働諸生産物の価値関係と
は、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対
にどうすることもできないものである。このばあい、人間にたいして物
の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにす
ぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界
の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、
それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する
独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物が
そのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝と名づける。それ
は、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生
産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえない
ものである。