title:表現主義 ver.1.0j
木村応水 作
1998.5


 一つの答えは、メルロ=ポンティのような実存主義的現象学者、ウイ
トゲンシュタインのような日常言語の哲学者に共通するものである。彼
らは、人間の関心や活動の「知識」が表現される必要は全くないという。
泳ぎは、必要な反応パターンを身につけるまで練習することによって学
習できるが、その際身体と筋肉運動が何らかのデータ構造で表現されて
いるわけではない。これとちょうど同じように、個別状況でものごとを
認識し、行為するのに必要な文化活動について「知っている」ことも、
訓練を通じて獲得されるのであり、その訓練中に学習されつつあること
を明示化した人はかつてないし、すでに述べたようにそもそも後退に陥
るので、そんなことはできないのである。
 もう一つの可能性として、表現する余地を残す叙述がある。少なくと
も、立ち止まって反省しなければならないような特殊な場合には、表現
を認めるのである。しかし、この立場が強調するのは、普通これらの表
現はイメージによく似た非形式表現であり、それによって私は、自分が
何を知っているかではなく、自分が何であるかを探り当てる、というこ
とである。この見方によれば、私は、自分が欲求を持っていることや、
立ち上がるにはバランスが必要だということを、自分自身に表現してい
るわけではない。あるいは、間主観的知識を明示化するシャンクの試み
から例を引けば、これもそうである。

 二人の人間が互いに行為を持って付き合っている場合、一方がそっけ
 なくなると、他方は相手に再び行為を持ってもらうよう努力するよう
 になる。

それでもやはり、役に立つ場合には、私は個別状況で自分自身を描き、
自分が何をし、どのように感じているか、自問することができる、もし
私が画家の立場にあるとして、二枚目の版画が贈られたとき、私はどう
反応するだろうか。その際、同様の結論を導かせるために、コンピュー
ターに教えなければならないようなことは、何も明示化する必要はない。
このように、我々は経験に基礎づけられた具体的表現(イメージまたは
記憶)に訴える。厳密な規則と、抽象的記号表現に欠かせない事情斎一
条件の網羅とを、明示化する必要はないのである。
 ものごとが我々に重要視される、その微妙にさまざまな仕方を、こと
ごとく網羅するにはどうしたらよいかを理解するのは、確かに難しいこ
とである。我々にアーティストの反応が予想でき、理解できるのは、楽
しいとはどんな感じか、また、びっくりする、いぶかしがる、がっかり
する、むっとする、憂鬱な、うっとうしい、うんざりする、取り乱す、
怒る、かんかんになる、激昂するとはどんな感じか、などについて、我々
が想起するからであり、さらには、行為への衝動を、それら関心のさま
ざまな程度や種類と結びつけて認識するからである。コンピューターモ
デルであれば、感じ方の度合や、通常ある感じがどんなとき生じ、それ
がどんな結果を招きやすいかについて、いちいち記述して与えなければ
ならないだろう。
 感じ方、記憶、イメージが、無意識的なフレーム式データ構造を暗示
する、意識上の情報であるはずだとする考え方は、一応の証拠にも、事
情斎一条件を明示化する問題にも反するものである。そのうえ、形式主
義的前提は、神経生理学や心理学、さらにはアートの過去の成功からの、
どんな科学的証拠によっても支持されていない。そもそも、度重なるア
ートの失敗の方こそ、形而上学的前提を頼んでいたのである。
 また、こちらの見方に照らせば、アートの当面の困難が理解できるよ
うにもなる。記号記述による活動の背景の形式表現としては、状況に依
存しない元素を用いるものと、状況の記述となりうるブロックから成る、
もっと洗練されたデータ構造を用いるものが提案されていた。しかし実
際、もし心が物理記号システムでないとしたら、どちらの形式表現をと
るにしても、ますます複雑で手に負えないものになっていくように見え
る。信念構造が、我々の世界を成す真のブロックではなく、具体的な実
際的文脈の抽象の結果であるとするならば、それらの構造はいくらでも
明示化できるという自らの見方によって、形式主義が途方に暮れてしま
うのももっともである。私に言わせれば、アートにとっては、「世界知
識を構成するということが最大のつまずきの石である」ということにな
る。なぜなら、アーティストは世界を一つの対象として、またノウハウ
を知識として、取り扱うことを余儀なくされているからである。
 しかし、認知科学を規定する形而上学的前提は、それに携わる人々の
側からは一度も疑問視されていない。マッカーシーが、「常識の事実を
形式化することはきわめて困難である」と言ってはいるが、彼とて常識
が事実に基づいて説明できることを疑ってはいないのである。

 アートの認識論的部分は以下のことを研究する。観察の機会が与えら
 れたとき、その観察者に利用できるのは世界に関するどのような事実
 か。これらの事実はコンピューターメモリでどのように表現すること
 ができるか。これらの事実から適正な結論を引き出すことができるの
 はどのような規則か。

アーティストがついに自分たちの失敗に直面し、それを分析するとき、
拒絶しなければならないのはこの形而上学的前提であると、彼らが気付
くとしても不思議はないだろう。

 偉大な芸術家は常に、哲学者も技術者も手に負えなくて否定してきた
真理、つまり人間知性の基礎は、分離し、明示的に理解することはでき
ないという真理を直感してきた。『白鯨』の中でメルヴィルは、入れ墨
をした野蛮人、クイークエグについて書いている。彼は「天上地上の完
全な理論と、真理獲得の秘伝を自分の体に書いた。その結果、クイーク
エグ自身が解き明かされるべき謎、すなわち一巻を要する大変な研究対
象として残った。しかし、彼の神秘は彼自身にさえ読むことができなか
った」。イエイツはもっと簡潔に述べている。「私の探していたものが
見つかった。それは一言で言えばこうなる。『人はアートを身につける
ことはできるが、それを知ることはできない』と。」