title:レディメイド ver.1.2j
木村応水 作
1995(ver.1.0j)


 『詩人と狂人達』 チェスタトン
 「ぼくは観念論者ということばを哲学的な意味で使います。つまり、
物質や他人の精神、しいては自分の自我以外のあらゆるものを疑うまぎ
れもなき懐疑家のことです。ぼく自身、この段階を通って来ました。だ
いたい、ぼくという人間は、あらゆる種類の悪魔的倒錯を経験ずみなの
ですから。ありうるかぎりの白痴になってみたということ、それが、こ
の世でのぼくのただひとつの存在価値なのです。ところで、どうかぼく
のことばを信じてください、もっとも重症でもっとも悲惨な白痴とは、
みずから万物を創造し包含しているのだときめこんでいる人間なのです。
人間は創られたもので、その幸福は、被造物であることの悦び以外にあ
りません。あるいは、大いなるお告げが命じられたとおり、あくまでも
子供たる人間は、この贈り物が『思いもよらなかった品』なるがゆえに、
深い理解によってそれを珍重するのです。しかし、思いがけぬ品という
からには、当然それは人間の外から送りよこされたものであり、それを
よこした人間以外のなにものかに対した感謝しなければなりません。贈
り物は、郵便受箱に押しこめられ、窓の外から投げこまれ、塀を飛び越
えてはいって来ます。窓とか塀とか、そういった限界こそ、人間の悦び
を画する設計図の線なのです。


 『クリシュナムルティの日記』 クリシュナムルティ
 瞑想者は言葉であり、思考であり、時間である。移ろいやすく、ここ
にやって来て、また去っていくものにすぎない。咲き散っていくのは花
ではない。時間とは動くことだ。あなたは川のほとりに坐り、水や、そ
の流れや、漂流物を見つめている。だが、あなたがもし水中にいれば、
観る者はどこにもいない。美は単に表現のなかにあるのではない。言葉
や表現、画布や本を捨てたところにある。

 なぜ表現する必要があるのか? 創造とは生産されたものごとなのか?
どんなに美しく役に立つかしらないが、手や精神によって生産されるも
のが人間の追求するものなのか? この自己放棄の情熱には表現が必要
なのか? 必要や強制があるとき、それは創造への情熱と言えるのか?
創造する者と創造されるものとの間に分離がある限り、美や愛は消えて
しまう。あなたは色や石を使って素晴しいものを造るかもしれない。し
かしあなたの日々の暮らしがあの至高の美徳、自己の全面放棄、と食い
違うならば、あなたが造ったものは賞賛と下品な軽蔑の両方に値する。
生きることこそ、色彩であり美であり、表現なのだ。それ以外は不必要
だ。


 『人口論』 マルサス
 わが国の不滅の詩人(シェイクスピア)はクレオパトラについてつ
ぎのようにいう。
 「慣れても陳腐になることのない
  かの女の無限の多様性」(『アントニオとクレオパトラ』第二幕
                            第二場)
この表現は、なにかある一つの対象にあてはめた場合には詩的誇張と
考えられるかもしれないが、しかし自然にあてはめた場合には厳密に
正しい。まことに、無限の多様性はあきらかに自然のきわだった特徴
であるとおもわれる。その情景のほかにあちこちにまじえられている
陰影は、自然のあふれるような美に、精神、生命および卓越をあたえ
るし、またその未完成と不平等、すぐれたものをささえるおとった部
分は、ときとして近視眼的人間の気むずかしい微視的な目をきずつけ
るけれども、全体の均整、優美およびうつくしい容姿に役立つのであ
る。


 『美学』 ヘーゲル
 詩人はすでに存在したもの、すなわち歴史・伝説・神話・年代記な
どから、いなすでに芸術的に加工された素材や境位からさえも、つね
にあらたに創作の財源をとることを許されていなければならぬ。それ
は、絵画でも外在的な境位が聖者たちの伝説から借りてこられ、同様
なやりかたがいくたびも繰り返されているのと同様である。かような
表現における本来の芸術的創造は一定の境位を案出することよりもは
るかに深いところにある。
いろいろの状態や葛藤を豊富にゆたかな想像を示しているというので、
称賛されている。そうして実際また中世や近代の芸術品では境位や事
件や運命が多様をきわめ、変化の妙をつくしてもいる。しかしこのよ
うな外的充実をもって能事了れりとするわけにはいかない。実際この
外的充実にもかかわらず、すぐれた戯曲や叙事詩は少ししかないので
ある。というのは、事件の外的な進行や変化が主要事ではなく、した
がって事件や物語そのものが芸術品の内容の全てをつくるのではなく
て、人倫的・精神的な形態化と、この形態化の過程を通じて提示され
開顕される心情や性格の大きな動きが主要事であるから。

 たとえばアプロディテやゼウスやパラスについて詩を作ろうなどと
は今日なんぴとも思いつかないだろう。彫刻はいまなおギリシャの神
々を題材とせずにはやっていけないが、しかしまたそれゆえにその表
現はおおむね通人や学者や狭い範囲の教養ある人士でなければ親しみ
がたく理解できないものになっている。

 いかなるマニールも持たないことが、古来、唯一の偉大なマニール
であって、ただこの意味においてのみホメロス、ソポクレス、ラファ
エロ、シェイクスピアを独創的と呼ぶことができる。

 しかし芸術が抽象的な内面の性向と外部の客観的現実とのかかわる
分裂にとどまっているならば、それはそれ自身の原理から逸脱するほ
かない。(真の芸術においては)主観的なものがそれ自身において無
限な、即且対自的に存在するものとして把握されなければならぬ。こ
の無限絶対なるものは、有限の現実を真なるものとして存立させてお
くわけにはいかないにしても、単に否定的態度を持ってこれに対立す
るにとどまらず、進んでこれを真理と融和させるにいたり、この活動
においてはじめ、古典的芸術形式における理想的諸個体の向こうを張
って、絶対的主観性として表現されるのである。


 『芸術の原理』 コリンウッド
 技術説が手段と呼ぶものは、この説によれば芸術作品という製品を
作ることだと定義される。この製品を作るということは、技術の哲学
の用語にしたがって、すなわち、製作者の心中にあらかじめ計画とし
て構想された形式を原素材に押しつけ、それによって原素材を変形す
ることだ、と記述される。この考え方から歪曲をとりのけるためには、
われわれはこれら一切の技術の特性を排除しなければならないのだが、
そうすることによってわれわれは第三の点にたどりつくことになる。
すなわち、芸術は事物を作ることと何らかの関係を持ってはいるが、
しかしこれらの事物は実質に形式を押しつけることで作ることと何ら
かの関係を持ってはいるが、しかしこれらの事物は実質に形式を押し
つけることで作られる実体的な事物ではなく、またそれは熟達によっ
て作られるものでもない。それらは何か種類の違った事物であり、何
か違った仕方で作られるものである。

 表現とは、それについて何らの技巧もあり得ないような活動なので
ある。

 例えば、シェイクスピアの戯曲のかずかず、わけても『ハムレット』
自己表現論者のあの絶対の狩り場が、じつは他の作家たちの手になる
戯曲の焼直しであったり、ホリンシェッド編纂の年代記やブルタルコ
スの英雄伝の断片であったり、中世に出た逸話集『ローマ人行状記』
からの抜粋であったりするということ。ヘンデルが自分の曲の中へ、
十八世紀イギリスの作曲家アーンのリズム進行をそっくり写し取った
ということ。ベートーベンのハ短調シンフォニーのスケルツオが、モ
ーツアルトのト短調シンフォニーの終楽章の再演で始まるということ。
ただし拍子は違っている。さらに、ターナーには、十七世紀の風景画
家クロード・ロランの諸作品から構図を失敬する癖があったというこ
と。シェイクスピアにせよヘンデルにせよ、ベートーベンにせよター
ナーにせよ、そんなことにショックを受ける人間がいるのを奇妙に思
ったであろう。


 『禅とオートバイ修理技術』 ロバート・M・パーシング
 だが私は、彼の言葉に逆らって言う。「この数週間で、私は今初め
て普通のことを言ったんだ。いつもは世間の人同様、この二十世紀の
狂気のまねごとをしているだけさ。他人の気を引かないようにね。
 でもきみのために、繰り返し言っておこう。私たちはね、アイザッ
ク・ニュートン卿誕生以前、数十億年もの間、どことも言えないとこ
ろにただ漠然と存在していたあの実体のない言葉を。彼がまるで魔術
でも弄して発見したと思い込んでいるんだよ。それは太古の昔から常
に在ったんだよ。ただし、何に対しても応用されなかった。だがやが
てこの世が出来上がり、そこで初めてこの世界に適用されたのだ。事
実、この世界を造ったのは、その言葉そのものだよ。ジュンにとって
は馬鹿げたことだろうがね。
 しかし肝心なことは、今もって科学者の理解の及ばない矛盾、つま
り心の問題だよ。心には実体もエネルギーもないが、人間は、一挙手
一投足、その支配から逃れることはできない。論理は心の中にあるん
だ。だから数だって心の中にしかない。科学者が、幽霊というのは心
の中にあるものだ、と言ったところで別に困ることもない。私にもそ
うとしか思えないんだからね。それに科学にしたところで心の中にし
かないんだ。そう言ったって、別に科学をおとしめたことにはならな
いさ。幽霊だって同じことだよ。


 『生命とは何か』 シュレーディンガー
 生きている細胞の最も本質的な部分、染色体繊維、は、「非周期性
結晶」と呼ぶにふさわしいものだということを、前もって述べておき
ましょう。物理学で従来取り扱われてきたのは「周期性結晶」に限ら
れていました。つつましやかな物理学者の頭脳にとっては、周期性結
晶はすこぶる興味深い、複雑な研究対象です。それは、無生物界が物
理学者の頭を悩ますもののなかで最も魅惑的で複雑な物質構造の一つ
です。にもかかわらず、それは非周期性結晶にくらべれば、かなり単
純な退屈なものです。両者の構造の違いは、同じ模様が規則的な周期
で何回も何回も繰り返されている普通の壁紙と、ラファエルの毛せん
のような刺繍の傑作との間の違いと同じたぐいのものです。後者は退
屈な繰り返しではなく、巨匠の手になる手のこんだ、脈絡の一貫した、
意味のこもった意匠が施されています。
 周期性結晶が研究の対象として最も複雑なものの一つであると私が
言ったのは、もっぱら物理学者を念頭においてのことです。事実、有
機化学はすでに大きな重要な貢献をなしているのに、物理学者がまだ
ほとんど何ら寄与していないのは、さして不思議ではありません。

 「飛び離れた」という言葉は変化がはなはだ大きいという意味では
なく、変化の起こっていないものとごく少数の変化の起こったものと
の中間の形のものがまったくない、という意味で不連続性があること
を意味します。

 突然変異というものは、明らかに、親ゆずりの財産に或る変化が起
こったものであり、遺伝物質に起った何らかの変化によって説明され
なければなりません。現に、遺伝のしくみをわれわれに明らかにして
くれた重要な育種実験の大部分は、突然変異を受けた個体(多くの場
合何重にも変異を受けたもの)と変異を受けていないもの、あるいは
異なった突然変異を受けたものとを、あらかじめ見通しをたてた計画
に従って掛け合わせて、それにより得た子孫を注意深く解析すること
に他ならないものでした。他方では、突然変異種がそのまま遺伝する
ということにより、突然変異というものは、ダーウインが述べたよう
に。不適者を絶滅させ、最適者を生き残らせることにより、自然淘汰
を行って種を作り出すための鍵として、はなはだ適したものなのです。
ダーウインの進化論の中で、彼の言う「ごくわずかな偶然的な変異」
という言葉を、「突然変異」で置き換えさえすればよいのです。
(ちょうど、量子論で、「連続的なエネルギーの移動」を「量子飛躍」
で置き換えるのと同様です。)ダーウインの説は、その他のすべての
点では、ほとんど変更の必要がありません。ただし、生物学者の大多
数により支持されている見解を私が正しく解しているとしてのことで
すが。

 もしも突然変異がはなはだしばしば起るものであって、同一の個体
に異なる突然変異がたとえば10以上も起る確率がかなり大きいとし
たなら、普通、有害な突然変異が有利なものを凌駕してしまい、その
結果、種は淘汰(選択)により改良されはしないで、不変のままで残
るか、あるいは滅びてしまうでしょう。遺伝子が高度の永続性をもつ
ことの結果として、比較的に保守的であることが本質的に大切なので
す。これと似通ったたとえを、工場の大規模な生産設備の働きに求め
ることができましょう。よりよい方法を発展させるためには、新しい
考案はたとえいまだ証明済みでないものでも試みてみなければなりま
せん。しかし、いくつかの新考案が生産高を高めるか減ずるかを確か
めるためには、それらの新考案を一時に一つだけ採用し、その際、装
置の他の部分はすべて一定にしておく、ということが本質的に大切な
ことです。


 『石灰工場』 トーマス・ベルンハルト
 いわゆる原因調査などしてみたところで、今日では誤解されている
ために濫用されているから、突きとめても代用品にすぎないし、また
この代用品でも満足しているわけだ。全世界を、つまりわれわれを信
じているか、それともまったく単純に来る日も来る日もわかると思い
こんでいるような世界を、人はほかでもない、この原因の代用品の調
査によって得られた代用品から(自分自身に)説明しているんだよ。
この二枚舌を使い分けようとするだけでも何十年という歳月を浪費す
ることになるかもしれないが、してみたところがただ年を取るだけで、
それだけのことでしかない。ただ破滅するだけで、それだけのことで
しかないんだ。例えばどんな文であれ、ひとつの文を口に出したりす
れば、そして好例を挙げるために、現代のいわば相当偉大な作家から、
あるいは偉大な作家からでも引用したりすれば、この文を汚している
ことになる、この文を口に出すのはよそう、何も言わないでおこうと
抑えられないだけでも、だ。いったん汚すと、どこへ行っても、どこ
を覗いてもぶつかるのは汚す人間ばかりだ。数百万に、正確には数十
億にも増えた汚す人間の仲間がいたるところで活躍している。これは
衝撃を与えることだ、衝撃を受ける人間がいればのはなしだがね。人
間はもう全然衝撃を受けることなんかない。どんなことにもまったく
衝撃を受けることなどないというのが現代人の特徴なんだからな。衝
撃は偽善と置き換えてもいい。衝撃的なものというのは偽善なんだ。
例えば人に衝撃を与える偉大な人間はもっと偉大な偽善者にほかなら
ないというわけだ。われわれが汚す人間とばかりかかわっている限り
は、世界だって汚れ切った世界なんだろうな。


 『彫塑』 ヘルダー
 すべてが最高度に実体的で、真実で、明確に規定されている彫塑に
おいて、美術でも文芸でもなく、魂でも肉体でもない「こうもり」を
つかまえようとする人は、お許しがえたければ、アレゴリー化された
神々ご自身にたのんでみたらいいさ。


 『古代芸術と祭式』 ハリソン
 魔術を信じる気持ちが弱まるにつれて、あるものを作ったり、ある
ものになったりする源であった、もともとは強烈な欲望は、たんにそ
のものを模倣するだけのことしかしなくなる。創造者としてのミメ
(俳優)は、現代の意味における物まね芸人(ミミッタ)になってし
まうのだ。信仰が衰えれば愚行と不毛が入りこんでくる。真摯で心の
こもった行為は、些末的な物まねに、一種の児戯に、なり果ててしま
うのだ。


 『ベルゼバブの孫への話』 グルジェフ
 ちょっとここで〈芸術家〉という言葉に関する彼等の誤解について
話しておくのも無駄ではないだろう。
 いや、実は話さずにはおれないのだ。それというのも、この言葉も
やはりバビロニア時代から現代のおまえのお気に入りたちに伝わった
ものだが、ただこれは他の言葉とは違ったふうに伝えられた。つまり
意味もない単なる空語としてではなく、当時使われていた言葉の意味
の一部を伴って伝えられたのだ。
 ここでぜひ知っておかねばならんのは、当時のバビロン知識人たち、
つまりレゴミニズム信奉者クラブのメンバーたちが、彼らに好意的な
他の知識人たちから、彼等が自分たちを呼ぶのと同じ呼び方で、すな
わち現代の人間たちならば〈オルフェウス教徒〉とでも書きしるすで
あろう呼び名で呼ばれていたということだ。
 この言葉は当時使われていた二つのはっきりした意味をもつ言葉に
由来していて、それは現代では〈公正〉と〈本質〉という意味に相当
するだろう。つまり誰かがこの名で呼ばれているとすれば、その人間
は〈本質を正しく感じ取っている〉ということを意味しているのだ。
 バビロニア時代以後もこの表現はほとんど同じ意味で代々自動的に
継承されていった。ところが約二世紀前にある人間たちが、これまで
に話したデータ、とりわけあの芸術という〈空虚な〉言葉に関して偉
ぶってあれこれ理屈をこねまわしはじめ、それと同時にさまざまな
〈芸術の流派〉なるものが生まれ、誰も彼もが自分はそのうちのどれ
かに属していると思うようになった。当時彼らはこの言葉の真の意味
など全く理解しておらず、また何よりも、当時この芸術諸流派の中に
〈オルフェウス〉なる人物、これは古代ギリシャ人が造り出した人物
で、現代の人間たちもそう呼んでいる、の流派があったために、彼等
は自分たちの〈天職〉をもっとはっきり区別するために新しい言葉を
造ることに決めたのだ。そういうわけで、彼はこのオルフェウス教徒
という表現のかわりに芸術家という言葉を造り出した。これは〈芸術
に従事している者〉という意味だ。

 しかし公平を期するために次のことも言っておかねばなるまい。ほ
んの時たま、現代文明の中に生存する人間たちの中に、たまたまオリ
ジナルとして彼等に伝わってきた制作物、特にバビロンのレゴミニズ
ム信奉者クラブのメンバーの手になるものの中や、あるいは代々伝承
されている間に、さまざまな良心的職業人たち、つまり前に言ったよ
うに、剽窃することがまだ完全にはその特性になりきっていない者た
ち、それゆえ他人の作ったものをたんねんに模倣してそれを自分の作
品として提出したりなどしなかった者たちの手で作られた模造品の中
に、何かが隠されているのではないかと考える者もいた。そしてヨー
ロッパ文明に生まれたこれらの探究者のうちの何人かは、この隠され
ものをきわめて真剣に探究した結果、実際それらの中にある確固たる
〈何か〉を見い出したのだ。


 『文芸解釈の方法』 シュタイガー
 ポーは、詩『大鴉』全体をリフレインする単語“nevermore”から
作り出した、と主張している。シラーは、自分は理念のたぐいから出
発する、と進んで告白した、こうしたことは、しかし、芸術作品を解
釈することに心を向け、伝記的研究などというものをやらなくなった
とたん、もはやわれわれには関係が無くなってしまう。ただ、形勢さ
れた物が何か欠陥のようなものを示すときは、われわれとしても理由
めいたものをあげる必要に迫られるわけである。


 『鰯の埋葬』 フェルナンド・アラバール
 チェスをする自動人形が近づいて来る。「ハンガリーのウオルフガ
ング・ド・ケンペレン男爵による発明」と貼紙されている。勝負の相
手をしているのは、大柄な十七歳ぐらいの金髪の青年である。彼のセ
ーターには、「ボビイ・F」という文字が読みとれる。本を何冊か抱
えていて、双眼鏡で書名を読んでみると、『マーフィー』、デュシャ
ンの『対立および結合された碁盤の目』、それに『勝負の終わり』が
あった。自動人形は機械の力で前進する。相手の青年は、わずかの休
憩時間を利用しては、まわりから食べ物をもらって元気をつけている。
 一人の男が、自動装置付の人工アヒルを三輪車にのせて押している。
バネ仕掛けの一連の歯車装置の働きで、その動物は翼を打ち、ものを
食べ、消化して、排泄する。人々はすぐそばを足ばやに行進して行く
が、ほとんど注意を払わないばかりか、それをつき落としそうになっ
たりする。
 一人の老人がぼくの窓の下で立ち止まり、泣きそうになって言う。
「わしの子猫(ミネ)を見ませんでしたかな? 黒斑の白じゃが」
彼は、返事も待たずに行ってしまう。
 相変わらず目の前を、三輪車にのせられた自動人形の行列が通り過
ぎて行く。いろいろなメロディーを演奏する横笛奏者、ミシェル神父
の物言う首、長太鼓奏者、女の手回し琴曳き、口をきく鳥、それに謎
めいたオレンジ売りなどが見える。もっと近いところを総合楽器(パ
ナルモニコン)が通りかかる。それはなんでも必要な楽器すべての音
を模倣し、オーケストラのように重々しく、ノイハウスのカンタータ
を演奏している。
 老人たちが、自動人形の間をローラースケートで滑っている。パー
トナーと組んでワルツを踊っているものもいる。子供たちは猛スピー
ドでジグザグに滑っており、むつかしい顔をした教師たちの振り回す、
アルクール中学の校旗と衝突しそうになったりしている。
 突然、訴えるように叫ぶ老人の声が、はっきり聞こえてくる。
「ミネー、ミネー!」


『太陽の洪水』 白鳥健次
ADAMな犬の殺人的頭脳:クローン少年たちが時間の中でノイズする
……そうADAM人形の呪われた身体モードで人工太陽のクローン・ス
キンを伝達するレプリカントな記憶:ギミック少女の殺人器官が鼓動す
る蟻のDNAチャンネルの終末に向かってドラッグ胎児のイカれた甲状
腺がダンスするこのレイプな世界のファクターにわたしの瞳が機械仕掛
けにファックする染色体のラヴ・レプリカントな逃避行:クローン少年
たちの冷たい脳髄:モノクロームの地球を抹消して:クローン・ダイヴす
る……わたしの遺伝子=TV::錯乱状態::存在困難な子宮の寄生体を複
製するADAM人形のカタストロフィックな頭脳線:蟻の肉体が自殺す
るギミック少女のあの瞳の彼方が蟻のクロニックな死骸をコピーする。
記憶ナ中ニワタシハイナイ××××××


 『マクラ』 ケルテース・アーコショ
 マクラは、自分の専門知識を使って、ブリキで人間の頭部を制作する
のはおもしろいだろうか、と自問した。これはいける、と彼は思った。
ヴァリやシャルゴーから、もう十分に現代芸術について聞いていたので、
今では芸術家がどんながらくたでも利用しているのを知っていた。靴ひ
も、缶詰の缶、脱腸帯、その他、考えもつかないようなものまで、芸術
家はあらゆる材料を使い、とても使えそうにないと思える手近な材料で
創作していた。ブリキから自動車の機械工は流線形自動車のアーチ型天
井を作り、金属工芸家は紋章上のばらやぶどうの葉に始まり、様式化さ
れた幾何学的建築装飾に至るまで、すべてをハンマーでブリキから打ち
出していた、ブリキというのは彫刻家のためにあるものではないはずな
のに・・・・。こう考えて、マクラはとても感激した。
 ブリキはマクラにも大いに関係あるものだった。紙や木炭、絵の具よ
りはなじみがあった。マクラは仕事が終わると、誰もいない仕事場に一、
二時間残って、厚さ一・五ミリメートルの丈夫なブリキのところどころ
にふくらみをつけた。それからできるだけ溶接棒を使わず、各部分がそ
れ自身の材料でデリケートな薄い継ぎ目を作って接合するように、各部
分を慎重に継ぎ合わせた。しかし、(誰かがマクラの邪魔をしないとも
限らなかったし)時間もほとんどなかったので、非常に急いで仕事をし
た。ブリキとブリキのあいだにあちこち不細工な隙間ができたので、そ
れを埋めるために、合金をかなり厚く塗らねばならなかった。ところが、
その厚い継ぎ目が頭部の特徴をとてもよく引き立たせることがわかり、
マクラは大いに気に入った。
 翌日、他の継ぎ目も厚く穴埋めした。だが熱がブリキをゆがめ、頭像
を醜くしたため、仕事が終わった時には、もうそれが頭像かどうかほと
んどわからななっていた。これには不快だったが、骨折り損に終わらせ
たくもなかったので、またの機会にもう一度仕上げをしようと考えた。
それで、工具棚の万力と継ぎ足し板の後ろに、投げ入れておいた。
 十日後、ふたたび手に取った時、もう少しで気絶するところだった。
頭像は釣り合いがいびつにもかかわらず、生命力に満ち、そのいびつさ
が彫りの深い、苦しみのある悲しげで静かな表情を見せていたからであ
る。マクラはこの頭像を新聞紙に包み、マクラの親しい守衛が当番の時、
その像をひそかに持ち出し、シャルゴーのところへ走った。(この守衛
とマクラは親しかった。近くの居酒屋で出会った時はいつも、マクラは
彼にソーダ割りぶどう酒を一、二杯おごっていたので、守衛はマクラの
鞄がその晩、空でないのに目をつぶってくれたのだ。)
 シャルゴーは頭像にとても驚き、なぜマクラが自分の作品をヴァリに
隠したがるのかわからなかった。(というのはマクラが真剣に頼んだか
らである。「ヴァリには内緒にして欲しい。そうしないとヴァリは、こ
のまま制作しつづけろって言うにきまっていると思うんです。でも、そ
うすることが自分にとって正しいことかどうか、まだまったくわかりま
せんから」)
「目と眉の曲がり具合をもう少し変えてみたらどうだろう?」とシャル
ゴーは忠告した。
「それは問題外ですよ!」
マクラは驚いて言ったが、すぐにシャルゴーに謝った。
「感情を害されたとしたら、すみませんでした」
「いや、君の方が正しいよ。これは君自身の作品なんだからね」とシャ
ルゴーは説明した。「だが、教えてくれたまえ、どうして問題外なのか
ね?」
マクラは説明できなかった。
「よくわかりませんが、おっしゃるようにしたら、頭像を駄目にしてし
まうことは確かだと思います。これは、今あるがままでおれの気に入っ
てるんです。そう・・・・ただ、いいっていう以外に言えません」
「その通りだ。だが、なぜいいんだ?」
マクラはどう言ったらいいのかわからなかった。
「ただ、いいと思うだけです」
「そうか。だけど、どこが君の気に入っているのかね」とシャルゴーは
さらにマクラを促した。
「君の気に入っている点は何だろうか。あるがままの頭は君に何を語っ
ているのか、それを言葉で表現してみたまえ!」
 マクラは肩を落とし、アトリエの中を行ったり来たりしたが、答えら
れなかった。頭像のことなど何も考えていなかった。ふたたび頭像が目
に入った。何が感動させるのかわからなかったが、他人の作品を見るよ
うに眺めてみた。像はマクラの気に入った。シャルゴーは励ますように
笑いながら答えを待ったが、マクラはやはり黙ったままだった。困惑し
たようにマクラは大きな褐色の両手を握りしめ、それから背中の後ろに
まわした。その間、シャルゴーは鉄の頭像を空いている彫塑台の上に置
き、マクラの作品を鑑賞しやすいように、円盤をゆっくり慎重に回転さ
せた。円盤はキイキイと音をたてた。穴の空いたような静けさの中でい
きなり響くこの音は、マクラの鼓膜に耐えがたかった。午後の日差しが
薄汚れたアトリエの窓を通して、斜めに差し込んでいた。シャルゴーは
仏像のような含み笑いを浮かべながら、ひびの入った回転盤をキイキイ
いわせながらまわしていた。とうとう我慢できず、マクラがドアを開け
て出て行こうとした時(自分のような無骨者が最も初歩的な質問にも答
えられないのに、何のために芸術家ぶらなければならないのか、わから
なかった。その時)、やっとシャルゴーが口を開いた。
「いつ気に入ったのかね?」
「うまくできたと思った時です」
マクラは声を落として言った。
「なぜいいのか、考えてみないのかね?」
マクラは返事をしなかった。
「まあ、その必要もないだろう」シャルゴーは話しつづけた。「そんな
ことはどうでもいいんだ。気に入るかいらないかなんだ。それから、ど
うして君がぼくの忠告に従わなかったか、わかるかい? 形がなめらか
で繊細になってしまうからだよ。角ばった荒々しさ、ここの左側のとこ
ろでごちゃごちゃに入り混じっているように見えるこの落ち着きのない
線、一点を見つめた目の硬さ、ゆがんだ鼻、それに、この顔を反抗的で
悲しそうに見せている窪んだ頬骨、そういったもので君は自分を表現し
ているんだ。それが君のモチーフなんだ」
マクラは答えた。
「その点なんですが、計画とは大違いで、偶然なんです。これは溶接の
時、熱でゆがんだんです。モチーフについて言うなら、こいつはおれの
ではなくて、溶接バーナーの作り出したものなんです」
「それが問題なんだよ」シャルゴーは笑いながら言った。「人間の造る
ものには限界がある。人間は呪文を唱えて作品を呼び出す。しかし、作
品の創造主ではないんだ。材料はそれ自身が内面に持っている力学に従
って形造られるのであって、創造過程で偶然性はずいぶん大きな意味を
持っているんだ。つまり君は、最も現代的な芸術問題の一つに気がつい
たわけだ。君がそれを言葉で表現できなかったとしても、そういうこと
は芸術家の仕事じゃない、彫像は溶接でゆがんで真実になったのだし、
もしも直したりしたら、直すことによって嘘をつくことになってしまう、
ということに気がついたんだ」
 シャルゴーが何もかも実にうまく説明してくれたので、マクラも今、
実際に理解できた。ヴァリは絵を描いている時、こういう超自然的な力
と闘っているのだという漠然とした思いが、マクラの頭の中を走り過ぎ
た。一本の青い線や赤いシミ、大きな弧、曲線、ねじれた線などに、ど
うしてこれらが真実であったり嘘であったりするのだろうか、マクラは
喜びより恐れを感じた。人間が人生をこういう考えに捧げ、それ以外の
金や家族や愛、子供などといった人間にとって必要なあらゆる物を、こ
の目的一つに従わせるというのは、正常ではない。正常なのはシャルゴ
ーのサークル内においてだけである。工場の者が聞けば(人の良い仲間
のヴェラ・ヨーシュカでさえ)、そういう人間を無責任なやつとか、せ
いぜい害にならない狂人と思うだけだろう。
 マクラがこういうことにかかわり合いを持ったので、またもや彼は奇
人、変人、変わり者にされ、みんな、ていねいな口は利くが、仲間とし
て受け入れられなくなった。そのぶん、シャルゴーと彼のサークルだけ
が、マクラを受け入れてくれた。そしてヴァリもこのサークルの一員だ
ったので、マクラは二重生活を送らねばならなかった。工場ではサーク
ルやヴァリと話すのとは違う話題で話しをした。だからマクラは、どこ
にいても半分だけの自分であって、どこにでもいるのに、どこにも自分
の居場所がなかったのである。

 月日が経つにつれて、次第にそういう状態にも慣れて、気にならなく
なった。絵を描き、彫塑するのは、今や(午後、終業の合図が鳴り、工
員たちが万力のそばのくたびれたテカテカになった作業鞄を手にとって、
もう紐の結んであった短靴をはき、中庭を足早に横切り、更衣室と洗面
所へ走って行くその瞬間から)日常生活の一部だった。マクラは絵を描
くことの意味をだんだん考えなくなった。生きている人生の意味をいつ
も問うてばかりいないのと同じことである。(それは宗教だけが答えら
れるのだ。「・・・・われらは神を知り、神を愛し、神に仕えるために
この世に在り・・・・」そして芸術もまた明らかに「神の御名を賛える」
ためにあるのだ。)だが実際は、マクラは無神論者だった。マクラは
ヴァリに、自然界の事物は目的を持たず原因を持ち、人間だけが目的を
持つことができる、教えられた。そこでマクラは自分の目的を捜し、デ
ッサンをした。(何のためにかはもう問わずに最初の試作で作品を成功
させたのは、適当な熱処理ができたからで、この適度な熱処理による造
形はどうすればできるかなどと、金属の彫像技術について深く考えた。