現代いけばなシリーズ
title:ドストエフスキーに捧げる花 ver.1.0j
木村応水 作
1992

石川県穴水町 ボイスを考える 参加作品
1992年9月10日〜17日
企画:ワタリウム美術館


 『マルテの手記』 リルケ
 懐疑的な頑固一徹な作家よ、おまえは誰一人そこへ連れてゆかなかっ
た。おまえは一人そこに閉じ篭ってさまざまの過程を分析した。おまえ
の血液のなかには「剔出」だけがあったらしい。「造形」とか、「物語」
とかは、一滴もおまえの血管の中になかったようだ。だから、おまえは
自分だけでガラスを通して見た小さなものを、さっそく万人の目の前へ
大きく突きつけるために拡大しようと、とんでもない、大胆な決心をし
てしまったのだ。

 「書物なんてものは、元来からっぽなものだ」と伯爵は激怒したよう
な身振りで壁の方にむいて叫んだ、「大切なのは書物ではなくて血だ。
血を読まねばならぬ」ペルマーレ伯爵は不思議な物語や珍しい挿画を自
分の血の中に持っていた。彼は気ままにどのページを開いてもよかった。
そこにはきっと何か面白い事件が書かれていた。彼の血の中のどの一ペ
ージだって、読み飛ばすことはできないのだ。ときどき、彼は引き篭っ
って、自分一人で一枚一枚ページをめくるのだった。すると彼は錬金術
や宝石や色彩学などの希有なページにゆきあたった。彼の血の中には、
きっとそのような珍しい話が書かれていたに違いない。


 『放浪者メルモス』 マチューリン
 「感受性が人一倍強い者の末路はああいうものよ。そうでない連中は
おいおい生殺しじゃて。花を見たり、鳥の世話をしたりの一生じゃ。勤
行はきちんとやって、叱られもせんが誉められもせん、無気力と倦怠の
中でなし崩しよ。で、死を望む。葬式の下準備で修道院もちとは賑やか
になろうと思うらしいが、そうはいかんて。おのが体では騒ぎ回るわけ
にもゆかず、そのまま死んでゆくわけじゃからな、刺激もないし、眼も
醒めずよ。ろうそくに火が点っても見えはせん、終油の秘蹟じゃとて感
ずるものか、祈りの仲間に首を突っ込めるわけじゃなし、いやまったく、
芝居は只今上演中というのに主役の姿が見えん、すでにあの世というわ
じゃ。やくたいもない麗しの幻想の毒をば食うておるわけよ。地震が壁
を木端微塵に砕いてくれやせんか、庭の真ん中に火山が噴き出しやせん
かと夢見ておるのじゃ。政治の革命や、盗賊の襲撃や、ある、ありえぬ、
お構いなしじゃ、何でもかんでも想像しおる。それが駄目なら、もし火
事が、とくる(もし修道院で火が出れば、扉は開放、『勝手に逃げろ』
じゃからな)。これを思えば希望は炎と燃えて立つというわけよ、飛び
出してやる、町へだって田舎へだって逃げられる、本当に何処にだって
飛んでゆける、とな。ところがこういう希望もついえるわい、で、やた
ら苛々、半病人よ。なんぞのつてでもあらば、勤めの免除も貰えようが、
さてそれではと部屋にいて、のんべんだらり、気力もうせて、白痴にな
るか。つてがなくんば、仕方がない、勤めはきっかりやらねばならず、
白痴になるのもずうっと早い。水車小屋で使う病いもちの馬は、普通の
仕事で日を送る馬よりも早ように盲(めくら)になるんと同じじゃて。
信仰とかいうものに駆け込む奴も出てくるわい。院長にすがりつこうと
する奴らじゃが、院長に何ができる? あの男だって所詮は人間様、絶
望と同じものを感じておるやもしれん。次はどうなる、聖者の像の前に
平身低頭か、御救け下さいましに、罵倒の捨て台詞を挟んでな。取りな
しを願うに効験あらたかならざれば、もちっと有難いとおぼしき奴へ乗
り換えじゃ。いよいよ最後はキリスト様、マリア様のお取りなしの懇願
じゃろうな。それもまた駄目、台座も両足も接吻の雨で擦りへらしても、
マリア様は知らん振り。夜中に回廊をうろつき回っては、寝ている連中
を叩き起こし、扉を残らずどんどん叩く、『聖イエロニムス様、祈って
下され、聖アウグスチヌス様、祈って下され』と大騒ぎじゃ。それから
祭壇の手すりに板をはりつける、『皆様、一修道士のさまよえる魂のた
めに祈って下さい』と板書きしてな。翌日になればこう板書きしてある
わ、『絶望せる一修道士が為皆々様の御祈祷を所望致し候』そのうちに
は、痛苦を免除してもらおうと、聖者の取りなしをたのんでみても人間
の取りなしを頼んでみても甲斐なきこと、痛苦を与える聖職にある限り、
いかなる力を以てしてもどうにもならんことに気がつくわ。それで、部
屋へ這い戻る、二、三日もすりゃ弔鐘が鳴る。仲間の連中は、『聖者の
香に包まれての臨終でした』と叫びながら、別の獲物を求めて罠の準備
に忙しいことよ」「じゃあ、それが修道院の生活だと?」「然り、例外
は二つあるばかりじゃ、想像力の助けを借りて逃亡の望みを日々新たに
し、死の床でもその望みを持ち続ける者が、ひとり。それともわしのよ
うに惨めさを分割してな、ほれ蜘蛛じゃよ、腹も張り裂けそうなほど溜
まった毒を、巣にかかって七転八倒、力の尽きた虫ケラに、そなたのよ
うな奴のことじゃ、一滴ずつなと注入してひと息つこうという者がじゃ」
そう言った瞬間、この瀕死の男の顔にはゾッとするような悪意が閃きま
した。私は一瞬ベットから飛びのいていました。戻って男を見ると、両
眼を閉じ、手がだらりと伸びたままです。そっとさわって、起こしてや
りましたが、こと切れていました。あれが最後の言葉だったわけです。
顔の表情は魂のそれを映して、静かで蒼白でしたが、それでも唇の端に
は冷笑の影が残っていました。

 木陰で枯れゆく花に見入りつつ、彼女はこうひとりごつ、「昨日この
管を流れていた血は赤かったのに、今日は紫。明日には黒く変わって死
んでしまうのね。でも苦しみはないのだわ、ひっそりと死んでいく、そ
ばで咲いてる金鳳毛(きんぽうげ)もチューリップも、死んでいくお友
達の苦しみは知らないのだわ。もし知っているのなら、こんなに鮮やか
な色に咲いている筈がないもの。ものを考える世界でもこんな具合なの
かしら? 誰かが枯れて死んでいくのに、一緒に彼も死にもしないで見
ているだけなんてことが出来るかしら? 出来はしないわ! もし誰か
が枯れるとして、私ならその人の上を転がり落ちる露のしずくになるわ!」

 天空は晴れわたっていた。地上の光景との何と云う著しい対照であろ
う! 赫耀(かつよう)として無辺際の光に照らし出された花園は無情
にも囲い込まれ、仕切られ、鉢を枷ともして柑橘銀梅の枝葉も方輪づく
ばかり。四角形に掘られた池や格子組みの四阿(あずまや)等々、あり
とある手を尽くして自然が拷問されているのだ。責め折檻に拉がれて自
然が奇形醜異のありとある相を繰り広げているのだ。


 『茶の本』 岡倉天心
 「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均
斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これ
もまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元
主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものでは
なかった。実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の
宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたこと
が認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉
を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のもの
であった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求む
る手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する
人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発展の
可能性に存した。茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完
成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式
となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表すのみならず重
複を表すものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を
全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を
画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿とし
て現われているのであるから。実際われわれは往々あまりに自己をあら
わし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さ
えも単調になりがちである。茶室においては重複の恐れが絶えずある。
室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければ
ならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは
角張っていなければならぬ。黒釉薬の茶わんは黒塗りの茶入れとともに
用いてはならぬ。香炉や花瓶を床の間にすえるにも、その場所を二等分
してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬように注意せねばな
らぬ。少しでも室内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱と
は異なった材木を用いねばならぬ。
 この点においてもまた日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所
に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家ではわれわれ
から見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。
背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつ
らいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人で
あろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をい
だいてくる。お祝いの響宴に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさん
のものをつくづくながめ、ひそかに消化の障害をおこしたことは幾度も
幾度もある。何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類果物の
丹精こめた彫刻をおくのであるか。何ゆえに家伝の金銀食器を取り出し
て、かつてそれを用いて食事をし今は亡き人を思い出させるのであるか。


 『反哲学的断章』 ヴィトゲンシュタイン
 絵をうまい具合に額の中に入れたり、うまい場所に掛けたりしたとき、
しばしば私は、その絵を自分で描いたような、誇らしい気分におそわれ
たことがある。だがこれは、適切な言い方ではない。「その絵を自分で
描いたような、誇らしい気分」ではなく、その絵を描くのを自分が手伝
ったような誇らしさ、いわば、ごくわずかの部分だがその絵を自分で描
いたような誇らしさ、なのである。これはちょうど、生け花の巨匠が花
をいけおわったときに、すくなくともごく小さな葉は自分がつくりだし
たのだ、と思うのに似ている。巨匠にとっては、自分の仕事がまったく
別の領域にあるということが、ちゃんとわかっているはずなのにである。
きわめてちっぽけな、きわめて見すぼらしい草花でさえ、その生成のプ
ロセスは、生け花の巨匠には手のとどかない、未知の世界にあるのだ。


 『星の王子さま』 サン=テクジュペリ
 王子さまは、もう一度バラの花を見にいきました。そして、こういい
ました。
「あんたたち、ぼくのバラの花とは、まるっきりちがうよ、それじゃ、
ただ咲いてるだけじゃないか。だあれも、あんたたちとは仲よくしなか
ったし、あんたたちのほうでも、だれとも仲よくしなかったんだからね。
ぼくがはじめて出くわした時分のキツネとおんなじさ。あのキツネは、
はじめ、十万ものキツネとおんなじだった。だけど、いまじゃ、もう、
ぼくの友だちになってるんだから、この世に一ぴきしかいないキツネな
んだよ」
そういわれて、バラの花たちは、たいそうきまりわるがりました。
「あんたたちは美しいけど、ただ咲いてるだけなんだね。あんたたちの
ためには、死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ぼくのバラの花も、な
んでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおんなじ花だ
と思うかもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたち
みんなよりも、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだか
らね。覆いガラスもかけてやったんだからね。ついたてで、風にあたら
ないようにしてやったんだからね。ケムシを、二つ、三つはチョウにな
るように殺さずにおいたけど、殺してやった花なんだからね。不平もき
いてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、
時には、どうしたのだろうと、きき耳をたててやった花なんだからね。
ぼくのものになった花なんだからね」
バラの花たちにこういって、王子さまは、キツネのところにもどってき
ました。
「じゃ、さよなら」と、王子さまはいいました。
「さよなら」と、キツネがいいました。「さっきの秘密をいおうかね。
なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えな
いってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
「かんじんなことは、目には見えない」と、王子さまは、忘れないよう
にくりかえしました。
「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そ
のバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」
「ぼくが、ぼくのバラの花を、とてもたいせつに思ってるのは・・・・」
と、王子さまは、忘れないようにいいました。
「人間っていうものは、このたいせつなことを忘れてるんだよ。だけど、
あんたは、このことを忘れちゃいけない。めんどうみたあいてには、い
つまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花と
の約束をね・・・・」と、キツネはいいました。
「ぼくは、あのバラの花との約束をまもらなけりゃいけない・・・・」
と、王子さまは、忘れないようにくりかえしました。


 『金閣寺』 三島由紀夫
 さて、こんな話をしつつも、柏木の手は微妙に動いて、錆びた小さな
剣山を水盤の中に並べ、天に当たる木賊(とくさ)をそれに挿し並べて
から、三枚組の葉組を整えた杜若(かきつばた)をこれに配して、次第
に観水活けの形を作っていった。洗い込まれた白や褐色の細かい清らか
な玉砂利も、仕上げを待って水盤のかたわらに積まれていた。
 彼の手の動きは見事という他はなかった。小さな決断がつぎつぎと下
され、対比や均整の効果が的確に集中してゆき、自然の植物は一定の旋
律のもとに、見るもあざやかに人工の秩序の裡(うち)へ移された。あ
るがままの花や葉は、たちまち、あるべき花や葉に変貌し、その木賊や
杜若は、同種の植物の無名の一株一株ではなくなって、木賊の本質、杜
若の本質ともいうべきものの、簡潔きわまる直叙的なあらわれになった。
 しかし彼の手の動きには残酷なものがあった。植物に対して、彼は不
快な暗い特権を持っているように振る舞った。それかあらぬか鋏の音が
して茎が切られるたびに、私は血のしたたりを見るような気がしたので
ある。
観水活けの盛花(もりばな)は出来上がった。水盤の右端に、木賊の直
線と杜若の葉のいさぎよい曲線がまじわり、花のひとつは花咲き、他の
二つはほぐれかけたつぼみであった。それが小さな床の間にほとんど一
杯に置かれると、水盤の水の投影は静まり、剣山を隠した玉砂利は、い
かにも明澄な水ぎわの風情を示した。
「見事なもんだな。どこで習ったの」
と私が訊いた。
「近所の生け花の女師匠だよ。もうじき、彼女はここへやって来るだろ
う。付き合いながら、俺は生け花を習っていて、こんな風に一人活けら
れるようになったら、俺はもう飽きが来たんだ。まだ若いきれいな師匠
だよ。何でも、戦争中、軍人と出来ていて、子供は死産だったし、軍人
は戦死するし、その後は男道楽がやまないのだ。小金をもってる女で、
生け花は道楽に教えているらしい。何だったら、今夜、君がどこかへ連
れて行ってもいいよ。どこへでも彼女は行くだろう」


 『正気の社会』 フロム
 からだと頭は、いかなる面でも切りはなすことはできない。人間が世
界を把握し、思考によって自分を世界と結びつけたとき、哲学、神学、
神話および科学がつくりだされる。人間がその感覚によって世界を把握
し、表現したとき、芸術と儀式がつくりだされ、歌、踊り、絵画、彫刻
がつくりだされる。「芸術」という言葉を用いるとき、近代的な意味で
それを人生から切りはなされたものと考える使い方に影響されている。
一方では芸術家という専門職があり、他方では芸術の賛美者と消費者が
ある。しかし、この分離は近代的現象である。すべての偉大な文化にお
いて「芸術家」がいなかったわけではない。偉大なエジプト、ギリシャ、
あるいはイタリアの彫刻の創作は、おのおのの芸術を専門とするずば抜
けて才能のある芸術家の作品であった。このことはギリシャ劇の作者や、
十七世紀以来の音楽の作者についても同様であった。
 しかし、ゴシック伽藍、カトリックの儀式、イタリアの雨乞いの踊り、
日本の生け花、フォークダンス、合唱はどうだろうか? それらは芸術
だろうか? 大衆芸術だろうか?


 『MF』 アントニイ・バージェス
 芸術というものは、私たちのまわりにあるこの世界の素材を集めてき
て、それを形作って意味を与えようとするんだよ。反芸術は、同じ素材
を集めてきて、無意味を求めるのだ。