『アンフィオニイ批評9』のソースは、
『ハイパーテクスト』 
ジョージ・P・ランドゥ 著
若島 正・板倉厳一郎・河田学 訳
ジャスト・システム

p102-
 ハイパーテクストはわれわれのテクスト観を変え、読者に多くの地点
における「始まり」を可能にしている。この理由で、ハイパーテクスト
によってひとつのテクストにおける始まりの決定が異なってしまうなら
ば、同様に終わりの意識も変わるだろう。読者は終わりに異なった地点
を選べるだけでなく、テクストに終わりを追加したり、終わりを拡張し
たり、読みはじめたとき以上のものにしたりしつづけられる。ハイパー
テクストの創始者の一人であるシオドア・ネルソンが指摘するように、
「最後の言葉はない。決定版も最終的な思想も存在しえない。つねに新
しい視点があり、新しいアイディアがあり、再解釈がある。われわれが
電子化を考えている文学は、この事実をものともせずに連続性を保持し
ているシステムである。テクストと水とのアナロジーを思い出してみよ
う。水は自由に流れるが、氷ではそういうわけにはいかない。流れる水、
すなわちネットワーク上の生きた文書は新規の使用とリンク作成にさら
され、これらの新しいリンクはたえずインタラクティブに入手可能なも
のになる。保管されている独立したコピーは凍結されて死んでおり、新
規のリンクへのアクセスは不可能である」。他のいくつかの点と同じよ
うに、ここでもバフチンのテクスト性についての思想はハイパーテクス
トを予期させるものである。バフチンの翻訳と編集を担当したカリル・
エマソンの説明によれば、「バフチンにとって“全体”とは完成した統
一体ではない。それはつねに関係性である‥‥したがって、全体を最終
決定したり残しておいたりすることは不可能なのだ。全体が現われると、
定義上それはつねに変化にさらされているわけである」
 ハイパーテクストはメタテクストの境界を不明瞭にする。完成や完成
品についての伝統的な考え方はハイパーテクストには当てはまらない。
ハイパーテクストは本質的に斬新なので、それを旧来の術語で定義し記
述するのは困難になっている。というのも、旧来の術語は別の教育技術
や情報テクノロジーに由来するもので、ハイパーテクストには不適当な
思いこみをはらんでいるからだ。とりわけ適用が困難なのは、完成や完
成品という一連の概念である。デリダが認識したように、印刷技術を超
えるテクスト性の形態は「“テクスト”をめぐる一連の支配的な概念‥
‥の拡張を余儀なくさせ」、その結果、この形態は「もはやエクリチュ
ールの完成したコーパス、書物やその余白に包摂された何らかの内容で
はなくなり、自分以外の何か、他の差異の痕跡を際限なく参照しつづけ
る差異の網目、痕跡の織物になる」