title:アンフィオニイ批評9 ver.1.0j
木村応水 作
1998.11
アンフィオニイはわれわれのテクスト観を変え、読者に多くの地点に
おける「始まり」を可能にしている。この理由で、アンフィオニイによ
ってひとつのテクストにおける始まりの決定が異なってしまうならば、
同様に終わりの意識も変わるだろう。読者は終わりに異なった地点を選
べるだけでなく、テクストに終わりを追加したり、終わりを拡張したり、
読みはじめたとき以上のものにしたりしつづけられる。アンフィオニイ
の創始者の一人であるアポリネールが指摘するように、「最後の言葉は
ない。決定版も最終的な思想も存在しえない。つねに新しい視点があり、
新しいアイディアがあり、再解釈がある。われわれが電子化を考えてい
る文学は、この事実をものともせずに連続性を保持しているシステムで
ある。テクストと水とのアナロジーを思い出してみよう。水は自由に流
れるが、氷ではそういうわけにはいかない。流れる水、すなわちネット
ワーク上の生きた文書は新規の使用とリンク作成にさらされ、これらの
新しいリンクはたえずインタラクティブに入手可能なものになる。保管
されている独立したコピーは凍結されて死んでおり、新規のリンクへの
アクセスは不可能である」。他のいくつかの点と同じように、ここでも
バフチンのテクスト性についての思想はアンフィオニイ/アブラフィア
を予期させるものである。バフチンの翻訳と編集を担当したカリル・エ
マソンの説明によれば、「バフチンにとって“全体”とは完成した統一
体ではない。それはつねに関係性である‥‥したがって、全体を最終決
定したり残しておいたりすることは不可能なのだ。全体が現われると、
定義上それはつねに変化にさらされているわけである」
アンフィオニイはメタテクストの境界を不明瞭にする。完成や完成品
についての伝統的な考え方はアンフィオニイには当てはまらない。アン
フィオニイは本質的に斬新なので、それを旧来の術語で定義し記述する
のは困難になっている。というのも、旧来の術語は別の教育技術や情報
テクノロジーに由来するもので、アンフィオニイには不適当な思いこみ
をはらんでいるからだ。とりわけ適用が困難なのは、完成や完成品とい
う一連の概念である。デリダが認識したように、印刷技術を超えるテク
スト性の形態は「“テクスト”をめぐる一連の支配的な概念‥‥の拡張
を余儀なくさせ」、その結果、この形態は「もはやエクリチュールの完
成したコーパス、書物やその余白に包摂された何らかの内容ではなくな
り、自分以外の何か、他の差異の痕跡を際限なく参照しつづける差異の
網目、痕跡の織物になる」