title:アンフィオニイ批評1 ver.1.0j
naonami 作
1996


『シミュレーショニズム』 椹木野衣
サンプリングに関して認識論的に言及すべき最大の問題は、それが
「引用」ではないということに尽きる。たとえば「引用」が、結局は他
者をいかにして自己に調和させるか、ひと綴りの自己表現の小宇宙に首
尾よく配置させるか、という問題だったように。そして「サンプリング」
は引用ではない。それはあくまで略奪的な戦略なのであり、「引用」が
それをなす当事者の表現的自我を不可避的に肥大させるのに対して、サ
ンプリングを敢行した当事者の自我は抹消され、無名性のなかに霧散す
る。さらにいえば、引用する者が富めるものから「収奪」するものを、
サンプリングする者は「没収」しているのである。


『複製芸術時代の芸術』 ヴァルター・ベンヤミン
芸術作品の複製がひとたび生じると、こんどはあらかじめ複製されるこ
とをねらった作品がさかんにつくられるようになる。たとえば写真の原
版からは多数の焼き付けが可能であるがほんとうの焼き付けかを問うこ
とは無意味であろう。こうして芸術作品の制作にさいして真贋の基準が
なくなってしまう瞬間から、芸術の機能は、すべて大きな変化を受けざ
るをえない。すなわち、芸術は、そのよって立つ根拠を儀式におくかわ
りに、別のプラクシスすなわち政治におくことになるのてある。


『シチュアシオン―ポップの政治学』 上野俊哉
記憶と想起は異なった二つのメモリーの方法である。ストックとしての
情報と、無意識に、主体にとっては突然に現われたり消えたりするショッ
クをともなう情報では心的な記載のプロセスが異なっている。堅面な構
造をもっていないディテール、些細な要素をカオスのなかから引き出し
て、決して総合しきれない不確定なものにとどめておく回想の反復、こ
こに走査(掃き出すこと)の行為が成立しうる。プルーストやベルグソ
ンは、この無意志的想起に文学と思考の可能性を見いだした。ベンヤミ
ンは『パッサージュ論』でこの後者の情報処理の方が、テクノロジーの
進展した社会では重要であると洞察していた。機械やテクノロジーを前
にした、あるいはそれを使った際の「ぎこちなさ」がこれまでの優雅さ
や美と別の何かを生み出すこともあるかもしれない(その解発子は「紅
茶に浸されたマドレーヌ」でもよい)。言いかえれば、標準化や画一化、
組織化のはてに見いだされるようなアウラ(イメージの一回性)もある。

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岡崎さんのバルバスプランツや粉川さんのようなラジカリも考えられ
よう。ネット上のテキストをランダムに走査して、それをカットアップ
するプログラム装置を作品として提出すること。いわばバロウズプログ
ラムとでもよぶべきもの。そこに従来の表現主体、表現上の文脈は破棄
されよう。

ニューエイジの側からの「インターネットは地球のニューロンである」
という言説を真に受けるなら。そこに提出されるテキストの断片はさな
がら「地球の夢見」をもモニター上に文学化する自動書記装置に他なら
ない。