『Canvas-cleaning』のソースは、
『開かれた社会とその敵』
カール・R・ポパー 著
第一、二部
内田詔夫・小河原誠 訳
未来社

第一部 p163-
 プラトンは芸術家であった。そして最良の芸術家たちの多くの者と同
様に、一つのモデル、すなわち自分の作品の「神聖な原型」を具象化し
忠実に写す」ことを試みた。前章で挙げた相当数の引用がこの論点を例
証する。プラトンが弁証法として記述するものは、概して純美の世界の
知的直感のことである。練達の哲学者というのは、「美や正義や善とは
何かということの真相を理解し」、それを天上から地上にもたらすこと
ができる人のことである。プラトンにとっては、政治とは王者の芸術で
ある。それは一つの芸術 art(人間操縦術や人に物事をやってもらう術
などというときのような比喩的意味においてではなく、言葉のもっと字
義的な意味で)なのである。それは音楽や絵画や建築と同様に構成芸術
である。プラトン流の政治家は、美のために都市を構成するのである。
 だがここで私は抗議しなければならない。私は人間の生活が一人の芸
術家の自己表現欲を満足させるための手段にされてもよいとは思わない。
われわれはむしろ、すべての人は自分が願うなら、あまり他人の妨げと
ならない限り、自分の人生を自分自身で作り上げる権利が与えられるべ
きだと要求しなければならない。私は唯美的衝動に大いに同情してもよ
いのだが、芸術家は他の素材での表現を探し求めるよう提案する。政治
は平等主義的で個人主義的な原則を支持しなければならないと私は要求
する。美の夢は、困っている人々や不正に苦しむ人々を助ける必要とこ
のような目的に役立つ諸制度を建設する必要とに従属しなければならな
い。
 プラトンの全くの徹底主義、全面的施策の要求と彼の唯美主義の間に
密接な関連を見ることは興味深い。次の各行文は極めて特徴的である。
プラトンは「神々との交渉をもつ哲学者」について語り、哲学者は「彼
の神的な洞察を諸個人においてもまた都市」(その製図者たちが神的な
ものをモデルとしてもつ芸術家でないならば幸福というものを知ること
がない)都市、「においても実現したい‥‥という衝動に圧倒される」
であろうと最初に述べている。彼らの製図法の詳細について尋ねられる
と、プラトンの「ソクラテス」は次のような注目すべき返答をしている。
「彼らは都市と人物とをそのカンヴァスとし、真っ先にそのカンヴァス
を洗うであろう(決してたやすいことではないが)。だがこの点こそが、
彼らが他のすべての者たちと異なる点なのだ。彼らはきれいなカンヴァ
スを与えられるか自分で洗ってしまったのでなければ、都市にも個人に
も働きかけ始めようとしない(また法律を作成しようともしない)であ
ろう。」
 プラトンが画面の消去 canvas-cleaning について語る際念頭に置い
ている類のことは、少し後で説明される。「それはどうすればできるの
ですか」とグラウコンが尋ねる。ソクラテスは答えて、「10歳以上の
市民はすべて都市から追い出してどこかいなかに追放しなければならな
い。そしていまや両親の卑しい性格の影響を逃れた子供たちを引き取ら
なければならない。彼らは真の哲学者のやり方で、またわれわれが叙述
してきたような法律に従って教育されなければならない」と言う。プラ
トンは『政治家』の中で、同じ精神で、政治道という王者の学に適って
支配する王者らしい支配者について語っている。「喜んで臣民となる者
に対してであろうとそうでない者に対してであろうと、また法律によっ
て支配するのであろうと法律なしにであろうと、‥‥その市民の幾らか
を殺したり追放したりすることによって国家をその善のために粛正する
としても、‥‥彼らが学問と正義に適って進み、国家を‥‥保護し以前
よりも良いものにする限り、このような統治形態は唯一の正しい統治形
態であると記述されなければならない。」
 これが芸術家(政治家)の進まなければならない道である。これが画
面消去ということの意味である。彼は現存の制度や伝統を根絶しなけれ
ばならない。彼は純化し、公職追放し、追い出し、流刑にし、そして殺
さなければならない(「粛清する」というのはこのことを表わす恐ろし
い現代語である)。プラトンの言明は、実際あらゆる形態の完全な政治
的徹底主義の非妥協的態度の(唯美主義者の妥協拒否の)真実の叙述で
ある。社会は芸術作品のように美しくあるべきだという見解から暴力的
方策へ行き着くのは極めて容易なことである。だがこのような徹底主義
と暴力のすべては、ともに非現実的で無益である(このことはロシアの
展開の例が示してきた。いわゆる「戦時共産主義」の画面消去が経済的
破綻をもたらした後に、レーニンは彼の「新経済政策」を導入したが、
これはその諸原則や技術論の意識的な定式化はないとしても、事実上一
種のピースミール工学である。彼は極めて多大な人間的苦悩を伴いなが
ら根絶されていた絵の大部分の相貌の復元から始めた。貨幣、市場、所
得の差別、そして私有財産(一時は生産における私企業さえも)が再導
入され、この土台が再建された後になってはじめて新しい改革の時期が
始まったのである)。
 プラトンの唯美的徹底主義の基礎を批判するために、われわれは二つ
の異なった論点を区別してもよかろう。
 第一点はこうである。われわれの「社会体制」とそれを別の「体制」
で置き換える必要とについて語るある人々が念頭に置いているものは、
カンヴァスに描かれてあり、人が新しい絵を描こうとすればその前にき
れいに拭わなければならない絵と大変似ている。だが幾つかの大きな違
いがある。その一つは、画家や彼の協力者も彼らの生活を可能にする諸
制度と同様、またより良い世界への彼の夢や計画も品位や道徳性につい
ての彼の基準も、すべては社会体制、すなわち拭い去られるべき絵の一
部だということである。彼らが本当にカンヴァスを洗うつもりなら、彼
らは自分自身とそのユートピア計画をも破壊しなければならないであろ
う(そしてこの後に続くのは、おそらくプラトン風の理想の美しい写し
ではなく、混沌であろう)。政治的芸術は、アルキメデスのように、社
会のちょうつがいをてこではずすためにわが身を置ける社会外の一地点
を求めて騒ぎ立てているのである。だがこのような場所は存在しない。
また社会はどんな改造の期間も機能し続けなければならない。このこと
が、われわれが社会工学においてもっと経験を積むまでは、社会諸制度
を少しずつ改革しなければならないということの簡単な理由なのである。
 このことはより重要な第二の論点、徹底主義につきまという非合理主
義の問題へと導く。すべての事柄において、われわれは試行錯誤によっ
て、つまり間違いを犯すことと改良によってのみ学ぶことができる。霊
感は経験によってチェックできるものである限り極めて価値あるもので
もあろうが、われわれは霊感に頼ることはできない。それゆえ、われわ
れの社会の完全な改造によって直ちに使いものになる体制が生まれると
仮定することは合理的でない。むしろわれわれは、経験の欠如のために、
多くの誤りがなされ、それらは小さな諸調整のための長く骨の折れる過
程によってのみ除去できるものと予期すべきである。換言すれば、われ
われがその適用を提唱しているピースミール工学という合理的な方法に
よってのみ、ということである。だがこの方法は徹底の仕方が不十分だ
として好まない人々は、新たにきれいなカンヴァスで出発するために、
新しく建設された社会をも再び拭い去らなければならないであろう。