title:Canvas-cleaning ver.1.0j
木村応水 作
1999.10


 プラトンはトランスフォーマーであった。そして最良のトランスフォ
ーマーたちの多くの者と同様に、一つのモデル、すなわち他人の作品の
「神聖な原型」を具象化し忠実に写す」ことを試みた。プラトンが弁証
法として記述するものは、概して純美の世界の知的直感のことである。
練達のトランスフォーマーというのは、「美や正義や善とは何かという
ことの真相を理解し」、それを天上から地上にもたらすことができる人
のことである。プラトンにとっては、政治とは王者のトランスフォーメ
ーションである。それは一つの芸術 art(人間操縦術や人に物事をやっ
てもらう術などというときのような比喩的意味においてではなく、言葉
のもっと字義的な意味で)なのである。それは音楽や絵画や建築と同様
にトランスフォーメーションである。プラトン流の政治家は、美のため
に都市を transform するのである。
 だがここで私は抗議しなければならない。私は人間の生活が一人のト
ランスフォーマーの自己表現欲を満足させるための手段にされてもよい
とは思わない。われわれはむしろ、すべての人は自分が願うなら、あま
り他人の妨げとならない限り、自分の人生を自分自身で transform す
る権利が与えられるべきだと要求しなければならない。私はファインア
ート的衝動に大いに同情してもよいのだが、トランスフォーマーは他の
素材での表現を探し求めるよう提案する。政治は平等主義的で個人主義
的な原則を支持しなければならないと私は要求する。トランフォーメー
ションは、困っている人々や不正に苦しむ人々を助ける必要とこのよう
な目的に役立つ諸制度を建設する必要とに従属しなければならない。
 プラトンの全くの徹底主義、全面的施策の要求と彼の唯美主義の間に
密接な関連を見ることは興味深い。次の各行文は極めて特徴的である。
プラトンは「神々との交渉をもつトランスフォーマー」について語り、
トランスフォーマーは「彼の神的な洞察を諸個人においてもまた都市」
(その製図者たちが神的なものをモデルとしてもつトランスフォーマー
でないならば幸福というものを知ることがない)都市、「においても実
現したい‥‥という衝動に圧倒される」であろうと最初に述べている。
彼らのトランスフォーメーションの詳細について尋ねられると、プラト
ンの「ソクラテス」は次のような注目すべき返答をしている。「彼らは
都市と人物とをそのカンヴァスとし、真っ先にそのカンヴァスを洗うで
あろう(決してたやすいことではないが)。だがこの点こそが、彼らが
他のすべての者たちと異なる点なのだ。彼らはきれいなカンヴァスを与
えられるか自分で洗ってしまったのでなければ、都市にも個人にも働き
かけ始めようとしない(また法律を作成しようともしない)であろう。」
 プラトンが画面の消去 canvas-cleaning について語る際念頭に置い
ている類のことは、少し後で説明される。「それはどうすればできるの
ですか」とグラウコンが尋ねる。ソクラテスは答えて、「10歳以上の
市民はすべて都市から追い出してどこかいなかに追放しなければならな
い。そしていまや両親の卑しい性格の影響を逃れた子供たちを引き取ら
なければならない。彼らは真の哲学者のやり方で、またわれわれが叙述
してきたような法律に従って教育されなければならない」と言う。プラ
トンは『政治家』の中で、同じ精神で、政治道という王者の学に適って
支配する王者らしい支配者について語っている。「喜んで臣民となる者
に対してであろうとそうでない者に対してであろうと、また法律によっ
て支配するのであろうと法律なしにであろうと、‥‥その市民の幾らか
を殺したり追放したりすることによって国家をその善のために粛正する
としても、‥‥彼らが学問と正義に適って進み、国家を‥‥保護し以前
よりも良いものにする限り、このような統治形態は唯一の正しい統治形
態であると記述されなければならない。」
 これがトランスフォーマーの進まなければならない道である。これが
画面消去ということの意味である。彼は現存の制度や伝統を根絶しなけ
ればならない。彼は純化し、公職追放し、追い出し、流刑にし、そして
殺さなければならない(「粛清する」というのはこのことを表わす恐ろ
しい現代語である)。プラトンの言明は、実際あらゆる形態の完全な政
治的徹底主義の非妥協的態度の(唯美主義者の妥協拒否の)真実の叙述
である。社会は芸術作品のように美しくあるべきだという見解から暴力
的方策へ行き着くのは極めて容易なことである。だがこのような徹底主
義と暴力のすべては、ともに非現実的で無益である(このことはロシア
の展開の例が示してきた。いわゆる「戦時共産主義」の画面消去が経済
的破綻をもたらした後に、レーニンは彼の「新経済政策」を導入したが、
これはその諸原則や技術論の意識的な定式化はないとしても、事実上一
種のトランスフォーメーションである。彼は極めて多大な人間的苦悩を
伴いながら根絶されていた絵の大部分の相貌の plug-in から始めた。
貨幣、市場、所得の差別、そして私有財産(一時は生産における私企業
さえも)が再導入され、この土台が transform された後になってはじ
めて新しいトランスフォーメーションの時期が始まったのである)。
 プラトンの唯美的徹底主義の基礎を批判するために、われわれは二つ
の異なった論点を区別してもよかろう。
 第一点はこうである。われわれの「社会体制」とそれを別の「体制」
で置き換える必要とについて語るある人々が念頭に置いているものは、
カンヴァスに描かれてあり、トランスフォーマーが新しい絵を描こうと
すればその前にきれいに拭わなければならない絵と大変似ている。だが
幾つかの大きな違いがある。その一つは、トランスフォーマーや彼の協
力者も彼らの生活を可能にする諸制度と同様、またより良い世界への彼
の夢や計画も品位や道徳性についての彼の基準も、すべては社会体制、
すなわち拭い去られるべき絵の一部だということである。彼らが本当に
カンヴァスを洗うつもりなら、彼らは自分自身とそのユートピア計画を
も破壊しなければならないであろう(そしてこの後に続くのは、おそら
くプラトン風の理想の美しい写しではなく、混沌であろう)。政治的ト
ランスフォーマーは、アルキメデスのように、社会のちょうつがいをて
こではずすためにわが身を置ける社会外の一地点を求めて騒ぎ立ててい
るのである。だがこのような場所は存在しない。また社会はどんな改造
の期間も機能し続けなければならない。このことが、われわれがトラン
スフォーメーションにおいてもっと経験を積むまでは、社会諸制度を少
しずつ transform しなければならないということの簡単な理由なので
ある。
 このことはより重要な第二の論点、徹底主義につきまという非合理主
義の問題へと導く。すべての事柄において、われわれは試行錯誤によっ
て、つまり間違いを犯すことと改良によってのみ学ぶことができる。霊
感は経験によってチェックできるものである限り極めて価値あるもので
もあろうが、われわれは霊感に頼ることはできない。それゆえ、われわ
れの社会の完全な改造によって直ちに使いものになる体制が生まれると
仮定することは合理的でない。むしろわれわれは、経験の欠如のために、
多くの誤りがなされ、それらは小さな諸調整のための長く骨の折れる過
程によってのみ除去できるものと予期すべきである。換言すれば、われ
われがその適用を提唱している"Transformation"という合理的な方法
によってのみ、ということである。だがこの方法は徹底の仕方が不十分
だとして好まないトランスフォーマーは、新たにきれいなカンヴァスで
出発するために、新しく建設された社会をも再び拭い去らなければなら
ないであろう。