『Atroverse』のソースは、
『内なる宇宙』
ジエイムズ・ホーガン 著
池央耿 訳
東京創元社
上巻P160
スラクスは山裾の窪地の〈裁きの岩〉の前に立ち、その身の丈ほどの
石柱を見据えながら、突き出した片手に全霊を集中した。導師シンゲン
・フーが冷然と見守る背後にスラクスと同輩の若い弟子が三人控え、車
座にまわりを取り巻いた年かさの修道僧たちは思いやりを示す知恵の光
条を放ちながら息を詰めて首尾をうかがっていた。
「ひたすら信じることだ」シンゲン・フーはスラクスを励ました。「迷
いがあってはならぬ。ただ一念をもって五体を満たせ」
信仰が試される瞬間である。スラクスは学び覚えたすべてを傾けて念
力を凝らした。体内に灯をともしたように、スラクスの手が光を発した。
「今だ!」導師が気合いをかけた。
スラクスはきっと身構えて石柱の腹を突いた。無垢の石は抵抗もなく
その手をすっぽり飲み込んだ。石に手を埋めたスラクスはみなぎる精力
が五体を駆けめぐる不思議な気持ちを覚え、物質が自分の意志に従った
ことに舞い立つほどの歓喜を味わった。
力が萎えて来た。ここで通力を失えば、石はその粒子を結合する底知
れぬ親和力によって彼の手を押し潰すであろう。スラクスは最後の力を
ふり絞ってゆっくりと手を横に動かした。石はあたかも流水のごとく、
彼の手の前で割れ、後方で閉じた。憔悴しながらも陶然と立ちつくすス
ラクスの肩に、シンゲン・フーは手ずから紫の螺旋の紋を染めた飾り帯
をかけた。スラクスは新たに修行の功を認められた一人として先輩修道
僧たちの輪に加わった。
信仰の証を済ませた若い修道僧たちは、石組みの炉の火を挟んで導師
と対座した。夜空から闇の神ニールーがその光景を見下ろしていた。糸
のように細い生命力の流れが幾筋かもつれながら一同の頭上に伸びた。
スラクスは今では流れを見ることができる。年配の先達の話によれば、
かつては大きな流れが空いっぱいにうねり、その絢爛たるありさまはさ
ながら錦織を拡げたようであったという。「われわれはハイペリアでど
のようなことに出会うのですか?」修道僧の一人が尋ねた。シンゲン・
フーは流れに運ばれて来る幻を見た者の一人である。
「幻化は瞬息の間」導師は答えた。「おまえたちはハイペリアに新しき
生を得る。転生の暁には、見るもの聞くことすべてもの珍しく、また不
可思議であろう」
「心に隙あらば狂気に取り憑かれるというのは真ですか?」別の一人が
尋ねた。
「その危険は常にある。おまえたちは試されよう。今あるままのおまえ
たちは、かくあらんと目指す存在を威服しなくてはならぬ。狂気は修行
の功を達せずして流れに乗る者のうちに宿る。意識が分裂して矛盾に悩
む者には用心せよ。悶着が起きた時はニールーの力を恃め」
「何と?」スラクスははっと顔を上げた。「ならば、ニールーはウオロ
スを脱した先の世界にも存在するのですか?」
「紫の螺旋をしるしに尋ねるがいい」シンゲン・フーは言った。「しる
しの下に信徒は群衆する。群衆は同類。おまえたちの頼るべき力の源と
知れ」
「その群衆がハイペリアの魔法を教えてくれるのですか?」もう一人が
尋ねた。
「ハイペリアのことはハイペリアに学べ」
「不思議な法則について知ることができるでしょうか?」スラクスは質
問を重ねた。「同じことを何度でも繰り返すからくりや、回る仕掛けに
ついても?」
「おまえたちの考えもおよばぬ働きをするからくり仕掛けがいたるとこ
ろ無駄にある」
「いたるところ? ならば、ハイペリアの魔法は世界にあまねく広まっ
ているのですか?」
「世界はおろか、世界の果てを越えた別の場所にも、またその間の虚空
にもだ。ハイペリア人たちは、それらすべてをひっくるめたもう一つ大
きな世界を縦横に飛び回る」
p209
ガルースはうなずいた。「何はともあれ、彼らは実に非科学的だよ。
それはもう、話にならないくらいでね。科学的な思考能力に欠けるなど
というのとは次元が違う。物質世界を合理的に説明する科学の基本的な
概念がそっくり欠如している。宇宙を理解するのにまず必要な因果律や、
公理系の無矛盾性についてもまるで常識がない。どこか別の宇宙からや
って来たのではないかと思いたくなるほど彼らは精神構造が違っている
よ」
「例えば、具体的には?」ハントは話を促した。
「六歳の子供でさえ知っているような、極く初歩的なことが彼らには理
解できないのだね」ガルースは乞われるままに話を続けた。「例えば、
物体は位置や方向が変わっても、形や大きさはもとのままだ。物の大き
さが朝と夜で変わることはない。同じ原因は常に同じ結果をもたらす‥
‥。いずれも常識に属することで、小さな子供だって当然のことと理解
している。ところが‥‥ああ、きみは彼らのことを何と呼んでいたっけ
?」
「アヤトラ」
p212
「宗派、教団によってその説くところはいろいろですが、よく調べてみ
ると、すべてに共通するいくつかの事柄が浮かび上がって来ます。いず
れの場合も、宗教の歴史は非常に古い時代に遡ります。人種や地域、文
化の歴史、その他もろもろの違いを超えて、古くから各地にアヤトラが
登場しているのです。彼らに共通することの一つが先程から話に出てい
る狐憑きのような突然の変貌です。この点に限っては誰の場合もみな同
じでしてね、ある時を境にがらりと人が変わっています。価値観も世界
観も変わって、当然、生き方もそれまでとはまったく違います。まさに
神がかりになるのです」
p212
ハントは険しい表情でスクリーンを睨んでいた。「あの信徒たちは常
軌を逸しているかもしれないがね、クリス。ただ、クリシュナ教徒とは
わけが違う」彼は半ばひとりごとのように言った。「何がどうなってい
るかはわからないが、とにかく、彼らは命懸けだ」
p214
どこか意識の奥深くに発した霊感によって救世主ユーベリアスは行動
の時は今と判断した。すべからく人の崇拝を集める者は、識閾下の無形
の思考と直観をもって時節、機運を察知し、それを間然するところない
明快な形で意識の表層に掬い上げなくてはならない。その過程は、コン
ピュータ内部で瞬息の間に処理された複雑高度な演算の結果が流れるよ
うにスクリーンに表示されるさまに似ていないでもない。
アヤルタを失って、螺階教は組織にひびが入ったのみか、早くも四分
五裂の兆しを見せていた。教徒らは深刻な懐疑に悩んだ。覇を競う他の
宗派の指導者たちは事件についてそれぞれに異なる解釈を示し、彼ら残
された信者を己が宗門に誘い込もうと躍起だった。アヤルタ暗殺は対立
する宗派の見え透いた妨害工作であるとして事件を黙視する立場がある
一方、その対極に、これこそは日常の体験の範囲を超えたところで働く
絶対者の力の顕示に相違ないとする見方があった。螺階教の最高指導者
がその力に対してまったく抵抗の術もなかったとすれば、そもそも螺階
教の説く教義に何ほどのものがあるのか、はなはだ疑問ではないか。
そんなわけで、ユーベリアスが一人ほくそえんだのは無理からぬこと
だった。幻滅を味わった螺階教徒は大挙して光軸教に改宗するに違いな
い。それのみならず、もとからの光軸教徒はますます信仰を深め、ユー
ベリアスが連邦樹立の夢も空しく自滅した政治的指導者の後を襲う時が
近付いたと確信するであろう。歴史上の大転機がすべてそうである通り、
指導者とその率いる集団の運命は一蓮托生である。彼の取った手段は不
正のそしりを免れないとしても、目標達成に向けて信者たちに心の備え
を促すにはどうしても、あっと驚く見せ場がなくてはならなかった。ア
ヤルタ暗殺は、いわば状況のしからしめるところ、必要欠くべからざる
偽装工作だったのだ。ジェベエックス復活の暁には、ユーベリアスはそ
のような小細工を弄することもない絶対の力を手にするはずである。
ユーベリアスは、ジェヴェックスを作り上げている複雑な仕組の中に
人知を超えた力に通じるチャンネルがあり、自身システムと血縁である
故にその力を自在に操ることができると堅く信じていた。いや、それど
ころか、自分はその力を体現する存在であるとさえ思っている。すなわ
ち、ユーベリアスはジェヴェックスがその機構の内に生じた霊験によっ
て自らを解放し、外界に拡張する手段を象徴する人格であり、絶対者の
化身である。
ジェヴェックスがいかにして自らを解放するか、その正確な過程をユ
ーベリアスは知らない。システムの細かい技術については若い弟子たち
に任せきりである。ユーベリアスは若年の頃、ほんの一時期ながら精神
に錯乱を来たしたころがある。立ち直った時にはそれ以前の記憶をいっ
さい失っていた。が、彼は自分がその喪失を補う特異な能力を授かった
ことに気付いた。ニューロカプラーを介してジェヴェックスと対話する
と、普通の耳では聞こえないシステム深奥の声を聞くことができたので
ある。ほかにもそのような耳を持つ者がいないではなかったが、極めて
稀だった。ユーベリアスは憑き物がしたような自分の変貌のことを周囲
から聞かされ、自身の本然の姿を求めてあれこれ調べるうちに、同じよ
うにある時を境に人格が変わった者がいることを知った。その種の人物
を世間では「覚醒者」と言っていた。一部の覚醒者は自分の閲歴を公言
して霊感を受けた聖人と崇められ、あるいは狂人と蔑まれた。一方、そ
の体験を胸ひとつにおさめている者もまた少なくなかった。が、それは
ともかく、極く単純な模式図の域を出ない世界像を描くだけで精いっぱ
いの、無知蒙昧な常人の理解を超えた意異次元の世界の記憶を持ってい
る点で覚醒者たちは共通の体験を分かち合っていると思われた。
p247
バウマーは食み出し者をもって自ら任じている。人よりも感受性が鋭
く、洞察力に富んでいるばかりに世に容れられなかったヴァン・ゴッホ、
ニーチェ、ロレンス、ニジンスキーなどと同じ孤高の境地である。人は
誰しも生まれながらにして霊的な感応力をその身に秘めているのだが、
それは現代社会の合理主義に封じられて閃きを放つことができない、と
彼は言う。外界ばかりに気を奪われ、真理の発見と霊の救済に至る手段
として科学を九天の高みにまつり上げた人間は心をどこかに置き忘れて
道を踏み誤っている。ひたすら理性のみを崇拝する風潮は鼻持ちならな
い。アリストパネスがソクラテスを嘲り、神秘詩人ウィリアム・ブレー
クがニュートンを嫌悪したのも同じ理由からである。