『新言語芸術アブラフィア』のソースは、
『フーコーの振り子』
ウンベルト・エーコ 作
藤村昌昭 訳
上下巻
文芸春秋社

上巻p40-
 書類をファイルしたものがいくつかあった。何か手がかりになるもの
はないかと探してみたが、ほとんどが出版関係の見積書だった。ただ一
枚だけ、書類のなかからワープロの練習を始めた頃のものに違いない。
そのファイル名は『アブ』。このアブラフィアが事務所に届いたときの
ことをよく覚えている。ベルボが子供みたいにはしゃいでいるのを見て、
グドルーンは愚痴をこぼし、ディオタッレーヴィはベルボをからかって
いた。確かに、この『アブ』に書かれてている内容は、自分に向けられ
た中傷に対するベルボのささやかな抵抗であり、手書き派からワープロ
派に転向した放浪詩人の戯れのようなものにすぎないが、それでも、ベ
ルボがこの機械と向かい合って、多くの組み合わせの機能に熱狂してい
た様子を物語っている。ベルボは例の青白い笑みを浮かべて、いつも口
癖のように言っていた。自分が主人公になれるような器の人間ではない
と悟ったので、これからは知的な傍観者でいようと心に誓った、と。つ
まり、真面目な動機がないのに書いても無駄であり、それよりかは他人
の本を書き直したほうがよっぽどましで、それに有能な編集者ならそう
するというのである。その彼が、この機械に一種の幻覚作用を発見し、
キーボードの上に指を走らせ始めたのだ。まるで自分の家の古いピアノ
で、誰に評価される心配もなく『猫踏んじゃった!』でも練習するかの
ように。ベルボには何かを創造しようという考えはなかったのだ。ただ、
彼は書くということに異常なまでの恐怖心を抱いていたので、自分のや
っていることは創造ではなく、電子機器の効果を試しているだけのこと
で、準備体操をしているようなものにすぎないことを十分に知っていた。
ところが、あの例の過去の幻影を忘れてしまい、この機械と戯れながら、
もう一度青春時代に戻って自分を鍛え直すための公式を見つけ出そうと
していたのである。いずれにしろ、彼の代名詞とも言えるほどのいつも
の悲観主義、過去には決して妥協しない頑固な態度が、この機械との対
話のなかでは実に従順なものになってしまっている。生の無益なる受難
に自分でも気づかないほど、人間のようで人間でなく、客観的で従順で
無責任な、トランジスター化された鉱物のような記憶で機械と対話して
いたのである。

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ファイル名:アブ
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 ああ、何と素晴しき11月末の朝、初めに言葉ありき。起きよ、土か
ら生まれしもろきものよ、起きよ、日はまた昇る。山のあなたの空遠く、
風たちぬ、いざ生きめやも。そが願い、そが憂い、そが苦悩、鳥の歌、
花のささやき、蝶の舞い、闇のとばり一度破れなば共に去りて帰らず、
ああ、哀れ今年の秋も去(い)ぬめり。
 キーを打つだけで、ひとりでに先へ進む。ビッテ、ビッテ、シルヴプ
レ、パラカロ、プレーゴ。正確なプログラムさえあれば、全文置き換え
だってお望み次第。例えば、レット・バトラーという南部のヒーローと、
スカーレットという自由奔放な少女の小説を書きあげて後悔していると
する。でも心配無用、命令一発、アブはレット・バトラーをアンドレイ
に、スカーレットをナターシャに、そして舞台をアトランタからモスク
ワへ一瞬のうちに変えてくれる。これで『戦争と平和』が完成。
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 ディオタッレーヴィがアブラフィアを信用しない理由は理解できる。
アブラフィアを使えば文字の組み替えによってまったく正反対の内容が
作り出せ、何か予言めいたことも約束してくれるということはディオタ
ッレーヴィっていたが、ベルボはそのことを彼に説明しようとした。
「変換ゲームのようなもので、確かテムラーって言うんじゃなかったか
なあ。あの献身的なラビが『光の門』に到達するために用いる方法だろ?」

 ベルボはディオタッレーヴィにプログラムを見せた。それはディオタ
ッレーヴィにとっては、まさにカバラのようなものだったと言える。
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10 REM anagrams
20 INPUT L$(1),L$(2),L$(3),L$(4)
30 PRINT
40 FOR I1=1 TO 4
50 FOR I2=1 TO 4
60 IF I2=I1 THEN 130
70 FOR I3=1 TO 4
80 IF I3=I1 THEN 120
90 IF I3=I2 THEN 120
100 LET I4=10-(I1+L2+I3)
110 LPRINT L$(I1);L$(L2);L$(I3);L$(I4)
120 NEXT I3
130 NEXT I2
140 NEXT I1
150 END
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「さあ、いいか、インプット? と訊いいてきたら、I,H,V,Hと
入力して、ランのキーを押してごらん。」

「ベルボって無責任な人なんですね」
「ええ、引用ばかりでしてね。結局のところ、19世紀の神秘主義の研
究家たちも実証主義の犠牲者だったということです。何でも実証すれば
真実だと思っているのですからね。『ヘルメス文書』がいつ書かれたか
についての論争がいい例です。あの本が15世紀にヨーロッパに持ちこ
まれたとき、ビーコ・デッラ・ミランドラやフィチーノや、ほかにも数
多くの立派な知識人たちが真実を発見しました。しかもそれは、きわめ
て古い知識、古代エジプト人よりも、あのモーゼよりもさらに古い知識
が織りこまれた作品だったのです。プラトンやキリストが後から陳述し
ていることがすでに書かれてていたのですからね」